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【官僚制】スポーツ化する成果主義の中でのアカデミアの環境
近年の官僚化によるスポーツ化が激しい。
言い換えれば、成果主義と競争主義、それに伴う自己責任論だ。
官僚化によってスポーツ化されたアカデミアを例に挙げると、アカデミアでは論文の本数が非常に重要になっている。
もはや一つ一つの中身や、実際にどのような工程を経て作られたかなど、ほとんどの努力の過程は全く評価しないものになる。
論文の本数が大事の中では、もちろん、質と量が大事になってくる。
ただ、本人の感じる質、つまり本人がその成果に対してどれだけ納得しているか、自信を持って新規性がある、革新的であると言えるかは、現在のアカデミアでは一切価値を持たない。
「あなたの感情などどうでもいい。あなたの感想、あなたがその成果に対してどう思っているかは世間からは関係ない」。
そんな中、成果を進める中で自身の気持ちは乖離して壊れていって、このまま続けたら私は何のために研究をしているのか分からなくなるだろう。本来好奇心と言う、冒険的な感情こそが研究をする動機のはずなのだから。
現在のアカデミアでの当たり前というのは、質はアピールの仕方であって、量は一刻も早くたくさんの論文を出すことに注力されることだ。
これが完全に当たり前になっている。だからこそ、現在のアカデミアでやっている人たちの多くは、この自身の気持ちと常識との乖離の中で戦っているのかもしれない。
一部の大変優秀な人でさえも、競合からの嫉妬と戦っているだろうし、自身がいつダメになるかわからない恐怖やプレッシャーは耐えないだろう。
もはや、研究を心から楽しんでやってる人を見ることはないだろう。
論文の数、書く速さ、アピールすること、教育、あらゆるマストとされるタスクが課され続ける罰ゲームのような環境。
非常に悲しい話である。もしかしたら、もうこのような状況下では、本人が楽しんでやれるような研究はもうないのかもしれないとさえ思う。
一部の限られた優秀な人間が考えることなんて限られた範囲でしかない。
多様性のある研究環境を作るなら、もっと寛容な状況、常識はもっと寛容なものにしなくてはならないだろう。
一部の論文生産装置になった機械人形達に委ねてはならないのだろう。
時間をかけてもいい、本当に興味ある部分に注力できる環境を作っていく。
今言われるような価値あるもの、役に立つものって、短期的すぎるのだろう。そして、他人に理解されないレベルの本当に大切なこと、未来を切り拓くようなイノベーションはたくさん眠っている。