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「畠山記念館の名品展のチケットを・・・」 から始まった濃厚な歴史散歩

東山女坂に友人がCRAFT COFFEEの店をオープンしたんで行ってみた。せっかくだから近所の京都国立博物館に立ち寄り、1時間ほど展示を観て、そんでもって整形外科の夕方診療に合わせて行く。膝にヒアルロン酸の注射をプチュッと打ってもらう。

こりゃ〜いい流れだ。

駐車場に車を停めて、博物館の受付に。

「畠山記念館の名品展のチケット・・・」と言いかけると、「あの〜それは来週からです」と。どうりで閑散としているはずだ。いま、展示は何もやっていないという。

う〜ん、どうしようか〜と思いながら歩きだす。・・・・自然と博物館正面ロダンの考える人像を望むあたりにきていた。徒歩2分ぐらいか。

み・み・づ・か 

そこは。耳塚だ。

豊臣秀吉の大号令で始まった朝鮮侵略、「文禄・慶長の役」。耳塚は、首級の代用として朝鮮から日本に送られた塩漬けの耳や鼻の供養の塚である。今から四半世紀前になるか、耳塚のことを調べて雑誌に寄稿したことがある。

と・よ・く・に 神社

この耳塚から徒歩2分、「豊国神社」がある。秀吉の墓は東山阿弥陀ヶ峰に豊国廟にあるが、神社には神となった秀吉が祀られている。

東と西、それも目と鼻(?)の先というか、耳の先というか、超近距離に耳塚と豊国神社はある。なんとも奇妙な位置関係である。

塩漬けにされた…

この時代、朝鮮から日本に強制連行された姜沆(カンハン)という知識人は、正確には忘れたが、同胞の耳と鼻は西に秀吉の遺骸は東に、どちらも塩漬けにされているで!と山門に落書きしたという。ざまあみさらせと叫びたくもあり、また悲しすぎる滑稽さに笑うしかないような心境だったのか。文禄・慶長の役は、秀吉の死をもって終わるが、その死はしばらく伏せられていた。だから塩漬けにされたといわれている。

あの鐘だ

その豊国神社の北隣にあるのが、「方広寺」である。あの鐘がある。「国家安康」が刻まれた鐘である。徳川家康が豊臣家の財貨を消費させようと巨大な寺院である方広寺を立てさせ、挙げ句の果てに、鐘の銘文には、家康という名前を分断した呪詛があると難癖をつけたいわくつきの鐘である。

みんな歴史から消去された

耳塚、豊国神社、方広の鐘・・・・・。

実は豊臣家滅亡とともにいったんはすべて歴史の舞台から消えることになる。家康は豊国神社を廃絶させる。本当は化けて出ないねと鎮魂社として残すものだけど、よほど後ろめたかったし、怖かったのだろう。豊国廟も荒れるに任せる状況となった。方広寺の鐘も呪いの梵鐘を鳴らすようなもんと棄却された。まだそれに比べれば、耳塚はまだしも。江戸時代の京都の観光絵図にも姿をとどめている。これは秀吉の蛮行を歴史に留めるために残っていたのだろうか。よくわからない。とにかく徳川の世においては、豊臣秀吉という人物はいなかったかのように扱われていたのだ。そりゃそうだわな。

秀吉、奇跡のカムバック

ところが豊臣秀吉は明治になって突如、偉人としてカムバックするのである。もちろん背景には、明治政権が徳川幕府を倒してできたものだということもある。でも決定的だったのは、日本が再び朝鮮半島を我がモノにしようとしたことだった。日清戦争は両国の朝鮮半島の奪い合いでもあり、日露戦争もまたそのことと無関係ではない。豊臣秀吉の復活は、ちょうどそんな時期に、明治30年祭、秀吉(豊公)没300年祭という全国的イベントによって行われた。そして耳塚は、秀吉の武勲を讃える史跡として一躍、観光名所になるのである。観光バスで行けるように耳塚のあたりは大きな道路が作られた。だからいまも不自然なほど大きな道路があるんだ。結局、耳と鼻だよ。悪趣味だね。

大芸能人のエール⁈

そして今回、再訪して改めて実感した。寄進された石柱の数々の名前である。歌舞伎、文楽、舞踊の大名跡がずらりと並んでいる。正面左右の銘は、片岡仁左衛門と中村鴈治郎である。ドド〜ン。

おや、オッペケペの川上音二郎センセイまでもが。ま、そういうことなんだ。まさに耳塚は、秀吉フィーバーを盛り上げるわけのわからない役割を荷わされてしまったのである。気の毒という他はない。

姜沆がこの光景をみたら。なんと落書きするだろうな。

徳川家康は朝鮮侵略には一兵も送っていない。そのことにより、徳川幕府は、速やかに朝鮮通信使を再開させ(1607年)、日朝国交回復をおこなうことができた。

朝鮮通信使が耳塚あたりを通るときには、日本側は耳塚に目隠しをしたといわれている。それでも一行はその存在は当然知っていて、あたりに来ると嗚咽していたという記録も残っている。

1時間弱、濃厚すぎる歴史散歩だった。






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