【ROOKIE!】市川雛菜のコミュタイトル
何のひねったタイトルも思いつかなかった。
こんにちは。
さて、2020/06/30-2020/07/10で開催されていた
[期間限定 拝啓、夏音痴諸君────! 透・雛菜スタンプガシャPlus]
にて、【途方もない午後】浅倉透と共に【ROOKIE!】市川雛菜が実装。
当然の如く天井を叩いて透2雛菜1+1という結果だったのだが。
実装から数日後、この雛菜sSSRのコミュ2[LPP]についてのTweetを発見。
なんでもLegitimate peripheral participationの略であり、日本語では「正統的周辺参加」と訳されるものであるという。そしてそれは1991年の
Lave, J. and Wenger, E.: Situated Learning : Legitimate Peripheral Participation, Cambridge University Press (1991).
まで遡る。邦訳版は1993年出版の
レイヴ&ウェンガー(1991)『状況に埋め込まれた学習』産業図書(佐伯訳、1993)となる。
シャニのライターさんはどっから引っ張ってきてんだよコレ、と思いつつ、この本を手にすることとなった。
「LPP」の大体の意味:読み飛ばし推奨
要するに、
「社会的共同体へ参加し、その度合いを高めていくこと」が「学習」という論である。
何を言ってるかわかるだろうか?私はよくわからなかった。
具体例を挙げるともうすこしわかりやすかった。
いわゆる徒弟性、師匠と弟子。見習いとして師匠の下につき、最初は見学や雑務をこなし、徐々に作業や業務を習いつつできることが増えていき、最終的に独り立ちする――という一連の流れの中で、「アイデンティティを確立することや集団へ関与・寄与すること、技能が熟練することそのものが学習なのだ」と言いたい…のだと思う。たぶん。
そして、グループの外から迎えられた新たなメンバーは、この過程を通じて共同体の周辺となり、やがて関わりを通じて中心的なメンバーへとなっていく――というものだと言いたいのだと思う。
(完全に言い訳なのだが私は教育・学習などに関してはド素人である)
そして、どうやらこの論は、いわゆる一般的な学校教育の目的とされる「知識や技能の吸収」に遍在する教育論とは離れた部分にあるらしい。
学校での知識・技能の吸収だけを目的としたいわゆるテスト目的の学習自体はLPPと異なるが、学校という共同体への参加する過程としてはそれもLPPのひとつである、という内容もあった。矛盾しているように見えるが、それもまたLPPだね、ということだろうか。
それっぽい部分
結局コレがわかれば素人のPとしてコミュへの妄想を書き連ねられる。
といっても結局これが今回のコミュの内容とどう関係があるのか?というのはわからない。
[LPP]のコミュ内容は小糸をからかいつつ円香にちょっかいを出す、まぁ大体4コマ208話と似たような内容と言っても差し支えないとは思うのだが。無理やり解釈すれば振り回す中心的部分という意味でnoctchillの周辺かつ中心である…とも言えそうなこともないけど流石に無理があると思う。
そもそも他コミュと比べて[fast:hour]は学校の早い時間、という意味でとらえても良さそうではあるし(遅刻しているが)、[run4it]はそのまま「いますぐ!」というそのままの意味で良さそうなのだが、この[LPP]だけが異質である。
というか本当にこの「正統的周辺参加」の略語で良かったのか…?という疑問すら浮かんでくる。
というよりも、コミュの内容というよりLPPという概念自体が市川雛菜の個人的な思考の方向に近いんじゃないか?とも思える。
特にこの辺。
ある意味教師の言っていることも正しいのだ。学校という共同体は、皆と同じようにテストや課題という形をこなすことによって知識を得る場所であり、それを通して共同体への参加度合いを高めていくことになる。
ただ、「状況に埋め込まれた学習」には以下の記載がある。
多くの学校教育の分析は、意図的であろうとなかろうと、教師と生徒の間では一様な動機付けが仮定されている。なぜなら、人びとは、ときには全くあからさまに、教師と生徒が主要な活動目標を共有していると仮定するからである(Davydov and Markova 1983)。-当該図書P.99より
彼女は、教える行為と学習のそれぞれに関連した対立する観点とその歪みを見通しているのかもしれない――すなわち、「私の活動目標は本当にあなたと同じなのか?」と。
おわりに
と、ここまで素人が古典的名著をCherryPick!NGして得た妄想を並べたてた文章である。
彼女の立ち位置は、そしてnoctchillは283プロダクションの中でどうなっていくのか?アイドルという立場で社会と対面し、連続性と置換の矛盾のなかでどのように変化していくのか?その辺りがとても楽しみである、と纏まったふりをして記載を終えたいと思う。
もしこの文章を見てしまった有識者がいらっしゃったら、是非私の浅学非才さを笑うと同時に寛大な心で加筆修正の指摘を頂ければ幸いです。
参考文献
・Lave & Wenger 1991. Situated Learning -Legitimate Peripheral Partcipatipn-. Cambridge Uiversity Press. 佐伯ゆたか(訳) 1993. 「状況に埋め込まれた学習:正統的周辺参加」(産業図書)
・http://www.nakahara-lab.net/misc16.html
https://ipsj-is.jp/isdic/1403/
http://www.gsis.kumamoto-u.ac.jp/opencourses/pf/3Block/09/09-1_text.html
https://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/060623LPP.html
http://harinezumi.hatenablog.com/entry/2011/11/28/004624