アシュタールさんにきいたヨガのこと
アシュタールさん、今月もよろしくお願いいたします。
「ベイビー、改まってどうしたのですか?」
いや、色々反省することも多くて。いつもアシュタールさんに甘えすぎだなぁとも思いまして。
「ベイビーはいつも極端ですね。そういうところが可愛く思えます。」
そか。私はこのままでヨシ、と。
「このままということは現実的ではありません。あなた方は流動的です。」
そか。それで、今月も質問お願いします。
「はい。喜んで!」
(アシュタールさん、居酒屋みたいや...)
「ヨーガやアーユルヴェーダ、マントラを唱えることなどは、見えない世界に繋がりやすくなるためのツールです。悪魔崇拝も含め宗教によってはこのツールを用いることをすすめることもあるでしょう。
繋がる先はその個人によって違うでしょうね。つながった先がある人にとっては’’聖’’でも、別の人にとってはそうとは思えない‘’邪’’を感じる、というのはよくあることです。
キリストの聖なる祈りや、あるいは悪魔信仰の儀式などはある程度宛先を限定して電話をかける、アポを取り待ち合わせをする、というような感じです。
それに対してヨーガなどは宛先不明に自分を開きます。先方にアクセスするというよりは、先方からやってきやすくするために自己を開示するような流れです。それはおおむねその人にマッチした存在とアクセスするでしょう。
大半の場合、ヨーガなどで自分を律することを学んだ人はあなたがたの世界で言う’’悪い’’存在(そのようなものは本来は存在しないのですが)とは、波長があいません。しかし’’悪い’’存在と気が合う人もいます。
それは好みの問題ですね。あなた方も学生時代、先生が眉をひそめるような不良を格好いいと思ったりしたことはありませんか?
不良と接点を持つことで、あなた方に万引きやシンナーを教えるかもしれません。しかし今のあなた方であればそれが必ずしも’’悪い‘’経験であるとは思わなくなっているのではないですか?」
いきなりほっこりする3次元的な例えになりましたね。これだからアシュタールさんってば好きだ。アンマという聖者についてはいかがですか?
「私はその存在を知りません。しかし多くの人が傾倒するものには注意が必要です。本来愛であればそれは静かなものです。傾倒している、熱狂している、と感じられるグルには愛ではないテクニックが用いられているかもしれませんね。わかりません。」
私はosho好きなんですけど…
「彼はチャーミングですね。ユーモアのセンスがいいです。あなたが気に入るのもわかりますよ。」
でも彼には会ったことがありません。実際に会ってみたら嫌な感じだった、というスピリチュアルリーダーたちもいます。
「その感覚を大切にしてください。自分が対面したときの感覚です。合うか合わないかは、あなた方自身がもっとも察知することができます。
さらに注意深く助言すると’’嫌な人’’ではありません。あなたには波長が合わない人、です。正確な表現をしたほうがいいですね」
はーい。
あ、ここでのヨガは単なる体操ではなく、体も含め呼吸や生き方を整える、という前提でお話しています。
単なる体操だったら、そんなに神経質になることないのかな?
「体操も、家事や仕事も、呼吸をすること、生きている(息ている)ことは、すべては自分を整えることに通じています。自分を整えれば見えない世界に繋がりやすくなります。生きること(息をすること)を意識的に行うかどうかです。」
らしいです。