片付けの鬼がくれたもの
まだ奥さんと暮らし始めるちょっと前だから5年程前になるだろうか。ぼくは自分の色んなものを片付けたいと思っていた。それは物質的なものから、精神的な部分から、なんかもう色々と。とにかく自分にまつわる様々な要素を片付けて、スッキリしたいって感じだったのだ。
その後、2015年12月末に今の奥さんと出会った。翌年2月から結構会うようになって、3月から一緒に暮らし始めた。蓋を開けてみたら、彼女は片付けの鬼だった。
片付けは別れだ。その物やそれにまつわる感情などにカタをつけるのだから、慣れていなければ尋常じゃないエネルギーが必要となるし、心理的に抵抗感もあるから中々進めることができない。人間関係だって始めるのは比較的簡単だが、別れは大抵拗れるってのが相場だ。容易なことじゃない。
でも、ぼくには片付けの鬼による指南と強力な支援があった。身を切るような別れの辛さに狼狽るたび、鬼は「それ本当に使ってるの?」と執拗に問うてくれる。実にシンプルだ。そしてぼくはそれを使っていないのだ。手放さない手はない、というわけだ。これのお陰で、ぼくは次第に自分で片付けを進めることができるようになっていった。
使わないということは、その時の自分に必要がないということだ。それを、「いつか使うから取っておこう」と思って取っておくと、当然スペースが無駄に使われることになる。見るたびに「いつか使うから」って考えちゃったりするから、自分の意識のスペースまで取られる。人間の1日の意思決定の回数って限られているらしいし、自分の頭とかリアルのスペースまで無駄に占めてられてしまうなら、持っていない方がいいよね、というのが自分にとっての当たり前になってきた。
すると次に目についてくるのが人間関係だ。
ぼくは以前、社会人になりたてからちょっと前くらいまで、よく人と飲みに行っていた。出会う人も多かった。すると、SNSでも繋がりが増えてくる。
SNSが出始めた頃、まだmixiが全盛で、Facebookが大学のEメールアドレスでしか登録できなかった時分、SNSは本当に近い友達くらいしか繋がる人がいなかった。これが、一度ガッツリ話して飲んだ人だけじゃなくて、例えば何かの会でたまたま同席した人なんかとも繋がるようになった。
人との出会いなんて楽しいもんだし、繋がりが増えるってのも悪いことじゃない。だから最初は特に気にもしていなかった。が、片付けに慣れてくると、たまに見るSNSのフィードや友達欄が気になるようになった。
名前は覚えている、顔も思い出せる、けど、そんなに話したことあったっけ?友達だったっけ?ていうか、そもそも友達って何だっけ?というような感じで、最近特にFacebookでの繋がりがしっくりこなくなってきた。
そこで、まずはミュート機能を使ってみた。「これはテンションが上がる!」「必ず見たい!」という投稿以外は全てミュートしたのだ。友人の同行が気になれば検索して見ればいいし、何も問題はない。ぼくのFacebookフィードは殆どNBAの情報で満たされるようになった。
そして、次に、今までFacebook上で殆どやりとりのなかった方、名前を拝見しても、すぐに思い出せなかった方、何かの会で同席したくらいだった方を、友達から削除させていただいた。
さらっと書いているが、「またやりとりするかもしれないし」とか、「いや、なんかいい人だった気がするな」とか、断腸の思いを抱えて悶々とはしていたのだ。が、結局それは、「いつか使うから」って思って片付けが進まなかったあの頃のぼくと同じじゃないかということに思い至り、断行したという次第である。
手放してみると、とても気持ちが良かった。
近年Facebookに何かを投稿するということに躊躇いがちだった。繋がっている人がシンプルに友達だけってわけじゃなかったから、「どう見られるんだろう」と何となしに気になってしまっていたことが、その理由ではないかと思う。友達を削除したことで、これが大分減ったのだ。
片付けの鬼と出会ってから早4年半。物質面も人間関係も、そしてそれに紐付いた感情やら何やら、お陰様で様々な意味での片付けが進んだ。
とは言え、これで終わりではない。多分もっと手放せるものはあるし、反対に、手放したことで本当に欲しいものも分かってくるのだと思う。人間も食しては排泄し、空腹になっては食べる。便秘は大変だし、空腹時に食べると本当に美味しい。巡りが良いというのは気持ちの良いものだ。
生きる上での新陳代謝。片付けの鬼がくれたのは、これから先の人生でずっと必要になりそうな行動指針だった。