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「今朝の秋」もうひとつのドラマ

先ごろ亡くなった脚本家・山田太一さんの追悼番組として『今朝の秋』(1987年NHK・深町幸男演出)が昨年末にオンエアされた。放送当時に録画して何度か見て、ドラマのおもしろさはもちろんだが、舞台になった蓼科の風景の美しさに魅せられた記憶がある。それをもう一度「確認したい」と思った。

なるほど、笠智衆、杉村春子はもちろんのこと、杉浦直樹、樹木希林、名古屋章ら、すでに鬼籍に入った名優たちの演技は、さすが!とうなるところが随所にある。「昭和の役者たちっていいな」としみじみ思わされた。重要な役どころから端役に至るまで、「ああ、あんなおじさん(おばさん)いたな」と思わせる重みがあるし、市井の人を演じても品がある。そして、夏の蓼科の、木々が光り輝くような美しさと透明感は、確かにこのドラマのもうひとつの見どころだった。その後(1993年)、ぼく自身が家を建てて蓼科に頻繁に来るようになったから、あれが撮影当時のビーナスライン?撮影地はプール平?と映像を追い、蓼科湖は当時から人気があったんだなとか、蓼科牧場はいまもあまり変わらないんだな…などと「変わりゆく蓼科」「変わらない蓼科」を確認することができた。

蓼科といえば、小津安二郎ゆかりの地である。脚本家の野田高梧の別荘「雲呼荘」に籠もって晩年の傑作映画のシナリオが共同執筆されたことは有名だし、野田はその家で1968年に心筋梗塞のため亡くなったそうだ。蓼科を気に入った小津が仕事場を茅ヶ崎から移したという「無藝荘」も有名で、今では立派に改築されて蓼科映画祭のシンボル的な存在になっている。ドラマ『今朝の秋』の撮影当時、笠智衆は夏休みを蓼科で過ごす習慣があり、高齢の彼を慮って撮影地を蓼科にすることがすでに脚本執筆の条件になっていたそうだから、笠智衆の別荘もあったのだろう。中井貴一の父・佐田啓二が亡くなったのも、1964年当時建てたばかりの蓼科の別荘からの帰路に起こった自動車事故が原因だと言う。まさに、小津をめぐる映画人たちゆかりの地、もっと言えば「聖地」である。

それにしても、なぜ彼らはそこまで蓼科を愛したか。

想像だが、皇族や富豪や作家の別荘が多かった軽井沢に対して、山をひとつ隔てた蓼科には自由闊達な空気があり、中央自動車道開通目前で、東京により近い「開かれた」イメージもあったのではないだろうか?軽井沢が浅間山の麓に広がる平地であるのに対して、蓼科山から霧ヶ峰へと連なる起伏に富んだ土地にあり、山の自然や四季の変化を、より身近に感じることができるのが蓼科の特徴だと思う。そう、「山に暮らす」ような感覚がある。

ドラマの山場に、笠智衆演じる父親が、末期癌に苦しみ、余命いくばくもないことを悟った息子(杉浦直樹)を病院から連れ出して、タクシーで蓼科に向かうというエピソードがある。ずっと昔に「男を作って」別れた妻(杉村春子)や、その元妻が営む小料理屋の使用人(樹木希林)。夫が癌になっていなければ離婚を考えていた嫁(倍賞美津子)と、その娘。いまは蓼科でひっそり暮らす父親(笠智衆)と死の瞬間が迫っている息子(杉浦直樹)。それらの人々が集って、スイカを食べ、諏訪湖の花火を見て(蓼科から諏訪湖が見えるのはおかしいが、夏の一夜には欠かせない設定だったのだろう)、当時ピンキーとキラーズで大ヒットした「恋の季節」を、なんと笠智衆までが歌い、やがて家族揃っての大合唱となる。そんなシーンが繰り広げられた後、息子の死と葬儀のシーンに暗転して、ドラマは終わる。

日常(嘘や離婚や死などが繰り広げられる東京の暮らし)を忘れさせ、一夜限りの家族団欒を過ごす非日常の舞台として、蓼科はとてもふさわしい感じがする。澄んだ空気、俗世を見下ろすような程よい高み、それらの蓼科という舞台があってこそ、『今朝の秋』というタイトルやこの家族のドラマが生きてくるように思う。

小津晩年の多くの傑作映画が生まれたのも、蓼科の「澄んだ空気と俗世を見下ろすような程よい高み」があってこそ、と言えばこじつけすぎだろうか?小津安二郎と野田高梧は、一本の脚本を1ヶ月ほど雲呼荘に滞在して書き上げたという。蓼科から、いや蓼科だからこそ、東京や鎌倉の舞台は、澄んだ空気の先にくっきりと見えていた。そんなことを想像する。

去年の秋頃から、ぼくは、東京を離れて蓼科に住むようになった。仕事やさまざまな用件で相変わらず東京と行き来しているとは言え、かつて非日常の場だったところで日常生活を送るのは、ずいぶん勝手が違うものだと思う。高みから東京を見下ろしているというよりも、むしろ東京のリアルを捨てて生きているような、清々しさと寂寥感を同時に感じながら暮らしているというのが正直なところだ。『今朝の秋』で笠智衆は、80を過ぎて蓼科で一人暮らしをする男やもめの老人という設定である。まもなく70になるぼくには、『今朝の秋』では描かれなかった、蓼科に生きる老人の「もうひとつのドラマ」が見えてきたような気がした。


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