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関係が自我と苦悩の産みの親

自分の存在を証明するには他人との関係が必要だ。
地球上でたった独りになってしまったら自分がいるのかいないのか確信が持てないだろう。僕から見える世界にはたくさんの他人がいる。なのに僕は自分の存在を曖昧に感じている。

他人に対して抱く怖いという感情で自分の存在を確認してきた。
心地よい確認の仕方ではないし、安心はまったくない。人がいて自分がいる。それだけで恐怖を感じるわけだから、自分が存在しているとの確信自体が恐怖であり、生き地獄の毎日になるのは必定だ。

挨拶だけで終わってりゃいいのに、何かひとつ話題を見つけて会話してみたり、冗談を言って場を和まそうとしたり、人の話に興味があるふりをして聞き上手に徹したり。後輩に対しては先輩とはかくあるべきとの歪な心象に則り、立場が上であることをしきりに強調して気持を安定させようとした。

興味、関心、親近感、尊敬、憎悪、嫌悪、心地よさ、甘え、悲しみ、安心等々。僕にとって他人に抱く様々な感情を表す言葉の根っこは恐怖というひとつに収斂された。「あの人に興味がある」というとき、僕はあの人を恐れている。

恐怖からくる卑屈と傲慢を相手に応じて使い分けるだけの対処法を続けたきたのが僕の人間関係だった。ここまでわかってくると自分が人とうまく付き合っていけるわけなどないのではとの疑問は確信となった。
僕の人付き合いの歴史は惨めなものだ。恥ずかしくもあり、痛々しくもある。

痛いとか苦しいとか、そういった死に方でなければ、別に死んだって構わないのではと思う瞬間が増えてきた。自分の存在に確信を持とうとすれば幻にしか過ぎない人間関係を実在すると信じる恐怖を味あわなくてはならない。
自分の存在が無になればその苦しみを味わう必要は無くなるはずだ。

とはいえ、自死で苦悩を終わらせるのは癪に障る。これまで散々苦しんできたのだ。苦しみから解放されるために苦しんだのでは本末転倒だし、割りに合わない。

そうなら生きながらにして自分の存在を無にすればいいのではないかと思い至る。
それには道元(の悟りについて解説した本)の言うところの「主語を排除した世界」で生きればいいのではないか。

幸いにして僕は人とのつながりを持てない人間で、自分の存在を確信する力は弱いとみえる。人との関係のなかで自我が芽生えるのであれば、人との関係のない僕が自我を捨てる(もともと持ってないけど…)のは普通の人より楽ではなかろうか。

これは決して精神世界系やスピリチュアル系の感覚で言ってるのではいし、ドラッグでたどり着けるような安い感覚でもない。もっと地に足のついた感覚で考えている。勿論それは人との関係を築けない被虐待者として地に足をつけたという意味だけれども。

だいぶと見えてきた。

ー 終わり ー

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