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手作りのお好み焼きを食べながら二人で過ごした秋の日の夜

ラブ・ソングを好んで書くアーティストが苦手だった。歌っているのが自作のラブ・ソングである限り、そいつは童貞や処女ではないわけだ。よくもまあ人前で堂々とそんな宣言ができるものだ。

しかも何曲も作るのだから一体これまでに何人と関係を持ってきたんだって話になる。自らを多淫であると公表しているようなものではないか。恥ずかしくないのかね。

童貞や処女であることを恥ずかしいとする考え方が存在すると知ってはいた。しかし婚前交渉は罪であると宗教で教えられている。私は頑なに童貞・処女は誉れであるとの思想を捨てなかった。

学生時代。私の部屋に一人の女性が遊びにきた。彼女が家で作ったお好み焼きを持ってきてくれ一緒に酒を飲んだ。これは明らかに男女の関係になってもいい状況だった。もっといえばそういう行為をしないのは相手に失礼でさえあったのかもしれない。

お好み焼きを食べ終え、お酒を飲みながら彼女はベットの上に寝そべった。私は床に横になって彼女には近づかなかった。そうして、ひと晩中、生死について語った。私は相手の気持ちなんてこれっぽっちも考えていなかった。

母から愛されず、抱きしめられなかった私は誰かを愛し抱きしめることを自分に禁じた。愛など存在しない。セックスは不潔だ。そう思わなければ愛も触れ合いも知らない自分を受け入れられなかった。

ラブ・ソングが苦手な私は英語の歌を主に聞いていた。「Burn」だの「21st Century Schizoid Man」だの「The Mayor Of Simpleton」だの「Miracle Man」だの、どう解釈していいのかわからない言葉を聞いているのは楽でよかったし、メロディ、リズム、楽器の音色といった楽曲自体を素直に楽しめた。

ある日、パチンコで少しばかり大きく勝った。いくらかは景品に変えようと思いCDのコーナーを見るとaikoの『桜の木の下』というアルバムが置いてあった。こういうときでなければ手は出せない。一般教養の勉強だと思い、いくらかの玉と交換した。

aikoのラブ・ソングは甘くなかった。メロディが気持ち悪いところにいきそうでいかない。絶妙なところで揺れ動きながらも芯がある。

アルバムを何度か聴くうちに思った。aikoは恋愛を信じていないのではないかと。もっといえば人自体を信じることに疑問を持っているのではないか。だからこそaikoは自分のことを『恋愛ジャンキー』だと歌っているのではなかろうか。

何をしたのかは覚えていないが、私が何かしら友人に失礼をしてしまったとき何度も「ごめん」を繰り返していると、「そんなに何度もあやまらなくていいよ。それだけ謝ってこられると本当は悪いと思っていないように聞こえるから」といわれた経験がある。

愛なんてないと私は自分に何度も何度も言い聞かせてきた。愛はあるとわかっていたからこそ、そうせざるを得なかったのだろう。同じように人を愛せない人間だと無意識でわかっているからこそ恋多き人生を演出してしまう人もいるのではないだろうか。

「生まれてきてくれてありがとう」「元気に育ってくれたらそれでいい」
母の愛に包まれて育った人に愛はあるのかないのかなんて議論の余地はない。愛はあるかないかを声高に訴える必要もない。意識しなくてもしっかり愛の上にのっかって生きている。

今『桜の木の下』のCDを探したのだが見つからなかった。『恋愛ジャンキー』が聞きたくてたまらないのに悔しい。捨てたのか、売ったのか。記憶にない。

aikoのCDはなくなってしまったのに食器棚には学生時代に私の部屋に遊びにきた女性がお好み焼きを持ってきてくれたときのお皿が残っている。「また取りにくるから」と彼女が置いていったのだ。あの夜以降、彼女は二度と私の部屋を訪れなかった。

ー 終わり ー

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