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存在の不安はつまりぼくは誰?

まだ自分と他人の区別もつかず、言葉も知らず、快か不快しかない混沌とした赤子の世界に安心と自我を与えてくれるのは泣き叫ぶことしかできない赤子の気持ちを汲み取り、抱きしめて、乳を与え、おむつを替えてくれる母(養育者)の存在だ。

今朝、目が覚めるとすぐ不安に襲われた。
今年で五十二歳になる。仕事もしていない。ぼくには惨めな老後と孤独な死が待っている。こんな人生に生きる意味はあるのだろうか。

不安に襲われるのは今朝に限った話じゃない。仕事をしていた頃も、学生時代も、幼い頃も、ずっと不安とともに目覚めてきた。

手を変え、品を変え、尽きることなく生まれてくる不安の始まりは何なのかを知りたいと強く思った。ぼくは布団の中で目を閉じて不安に意識を集中させた。

赤子のぼくが思い起こされる。お腹が減った、暑い、寒い、眠い、痒い。無秩序に襲ってくる言語化できない不快感になす術もなく、ぼくはただ泣いている。泣いてどうなるものかもわからないけど泣くことしかできない。そして、泣いても、泣いても、母は来ない。赤子にとっては絶望だ。世界そのものが絶望的なものに思えたはずだ。
例えば遷延性意識障害(植物状態)の人でも意識はあり、意思の伝達方法を奪われているだけで暑い、寒い、痛い、痒いを感じ続けているのだとしたら。その苦しみたるや、想像しただけで恐怖に襲われる。
不安を見つめると、そんなイメージが浮かんできた。

自分がいて、他人がいて、他人とのつながりから世界が広がり、その世界から自分は歓迎されていると思えることで自分の存在は安定する。そのために必要な人とのつながり方を教えてくれるのが生まれてすぐにはじまる母(養育者)とのスキンシップを伴う感情の交流だ。

ぼくは誰だ?
ここはどこだ?
なぜぼくはここにいるのか?
ぼくの抱える不安の根源は自分の存在のあやふやさから生まれるものだと思う。
名前や住所や履歴書を書けたとしても、そんなのではぼくの存在の何も保証されない。

人生の意味や、本当の自分なんて誰もわからないのだろう。それでもみんな生きている。自分は母に愛されてこの世に生まれてきたのだという確信が人生の意味なんてわからなくても自分の人生を肯定する自信を与えてくれるからだ。愛されてきた確信を持つ人は人を愛することもできる。愛され、愛して、人とのつながりのなかで自分の存在を疑うことなく生きていける。

人と人とが有機的につながって安心し、愛し合って生きている世界はばくにはわからない。それはもう仕方ない。
ぼくには人とのつながりで得られる安心はわからないながらも、人それぞれが持つ役割は信じられる。その役割を持つ人たちの中でぼくも何かの役割を担って生きていければいい。
ぼくにとって、その役割が、普通の人の言うところの愛や信頼にかわるものであり、人とのつながりに当たるものかもしれない。

みんなの中にぼんやりと紛れ込み、目立たず静かに毎日が過ぎてゆくなかで、ぼくは目立たぬところから一人一人の役割に敬意をはらい、ありがとうとそっと手を合わせる。そんな日常を送れるようになりたい。世界の実相はきっと愛で溢れている。

ー 終わり ー

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