みんながみんなを感じる幸せ

街には沢山の人がいた。右にも左にも、前にも後ろにも、あちこちに人がいた。こんな沢山の人の一人一人に意志があり、感情がある。それって、すごい、と思った。不思議だと思った。

次の瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。街中で一人泣いているおっさんなんて気持ち悪い。泣いているがバレないように下を向いて歩いた。

泣きながら歩きながら思う。これだけ沢山の人の意思や感情を一体誰が受け止めるのだろう。それはつまりこれだけ沢山の人の気持ちを受け止めてくれる存在がいて欲しいとの願いでもあった。

また一段と激しく泣けてきた。

歩道橋にきたところで僕は人の流れに背を向けて道を眺めるふりをして立ち止まった。下を向いて歩くにしても涙が溢れ過ぎていた。

歩道橋下の道には沢山の車が走っている。交差点では南北に向かう車が止まれば、東西へ向かう車が進む。信号が変わるのにあわせて車の流れも変わる。規則正しい車の流れが、一つの大きな意志の現れに思えた。

一台一台の車の中には人がいる。その人の一人一人に意志と感情があって、そんな一人一人が交通ルールを守っている……

みんなが守るルールがある。ルールを守るみんながいる。ダメだ。泣けて泣けて仕方がない。

頭を少し上げビルとビルの間をまっすく伸びる道の先に見える空に視線を移した。水色の空だった。

綺麗だなぁ……

それだけを、心底、思った。次の瞬間、空もビルも色が増した。遠くにあるのに近くにあるような。遠近感が狂ってしまったような。空もビルも同時に目に飛び込んできた。空もビルも優しかった。

じっとしてても涙は止まらないので、また歩きはじめた。寒い日なのに長袖のTシャツ一枚で飛び跳ねながらお母さんの横を歩く子どもがいた。はしゃぐ子どもの息はあがっている。
「なんだぁ、疲れてるじゃん」
お母さんは笑いながら子どもに言った。

これは……  
お母さんに自分の気持ちを理解してもらった子どもが安心してる……
母と子の気持ちが通じ合ってる……なんと尊い……
すぐさま号泣に入った。立ち止まってはいられない。

涙が止まらぬままで少し歩くと商業施設のビルの窓に書かれた店舗名が目に入った。お店の名前は文字で書かれている。当たり前だ。

人間は文字を組み合わせて言葉にして意思や感情を伝え、コミュニケーションを取っている。文字を文字たらしめているのは、文字をみんなで共有すると決めた、みんなの意志なのだ。
文字は長い歴史の中でみんなに共有されきた。

みんながみんなで共有してきた文字ってすごくないか? 人間一人一人に個別の意思と感情があるのに、みんなって意識になれてみんなで何かを共有するってすごくないか? このみんなって感覚すごくないか? みんながいるこの世界ってすごくないか?

号泣。号泣に次ぐ、号泣。

どれだけ泣いてたかわからない。
かなり長かった。ずっとずっと泣いていた。疲れた。そしてはっきり悟った。僕の抱える苦しみの根本的な原因が何だったのかを。

みんなはみんなが同じように感じているって信じられるのだ。そう信じられるみんながいるから、みんなは安心できるのだ。みんなは当たり前に持っている感覚だから、みんなって感覚を改めて意識する機会はないのだろう。

僕には、みんなが、ない。みんなと一緒。みんなと同じ。みんなで安心。その、みんなが、ない。それが僕の苦しみの原因だった。

みんなって感覚を知らなかった僕の心に、みんなという言葉が意味と感情を伴って、今日初めて飛び込んできた。

ただし、みんなの持つ意味と感情は知ったけれど、みんなを意識することで得られる安心は僕には手に入らないのはわかっている。

不思議なのだ。安心がないという事実が、僕にとっての安心で、僕がその中に入れないみんなが僕にとってのみんななのだと漠然と感じはじめている。

僕はここにいる。生きているとか、生きていくとか、そんな張り詰めなくても、僕の気持ちは確かにここにあるし、気持ちがここにある限り、僕は間違いなくここにいる。

みんなと外れながらも、みんなと共に存在している。みんなといてもみんなの外にいる。それが僕なのだ。自分は孤独なのだと知った。おかげで孤独のままでありながら孤独ではなくなる日がくるかもしれないと思えた。

その日は一時間近く泣いていた。

ー 終わり ー


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