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散々に煽ったあげく何もなく過ぎて誰にも責任はない

1997年の7月に地球は滅びる。幼いころノストラダムスの大予言が流行った。テレビも本も地球滅亡の話題を定期的に取り上げる。ノストラダムスが指定したとされる滅亡年月は別としてだが信仰している宗教の教えの後押しもあって僕も地球滅亡説を信じていた。

1997年には26歳になっている。26歳までには神への強い信仰心を確立して地球滅亡を乗り越え、その後に訪れる千年王国で暮らせる自分になるぞ。そう言い聞かせて不安を払拭しようとした。そのときの僕は自分の感じている恐怖の原因は地球滅亡の予言にあるのだと信じて疑わなかった。

中学生になると僕は陸上部に所属した。ある競技会に参加したときのことだ。順番を待つ列に同級生と並んでいると二人ほど前にいた他校の生徒の話している声が聞こえてきた。「今、ここに爆弾が落ちてきたらどうしよう……」他校の生徒はそういうと体育座りで抱え込んだ両膝に顎をのせ不安そうな顔をした。

「あいつ、ぜったい変なやつだよな。爆弾なんか落ちてくるわけないじゃん」競技を終え控えの席に戻る途中、いっしょに参加していた同級生は馬鹿にしたように笑っていった。「うん。ぜったいにおかしなやつだね」と答えつつ、僕は思った。「爆弾は落ちてこないだろうけど大地震は起こるかもね」と。

他校の彼は爆弾が落ちるのを望んでいたのではないだろうか。彼の抱える「爆弾が落ちてきたらどうしよう」という不安を誰も真に受けてはくれない。でも本当に爆弾が落ちたとしたら彼が抱えていた不安は現実となり、そこで初めて他人から共感を得られる。他校の彼はそれを望んでいたのではないか。

当時の僕も大地震が起きて欲しかったのではないかと思う。そうすれば意味もなく苦しい日常から意味のわかる苦しみの日々がはじまる。大地震で世間が混沌とすれば僕の抱える不安をもっと多くの人が理解してくれる。不安という感情で他人と繋がれる。当時は明確に言語化できていなかったけど、そういうふうに考えていたのかもしれない。

おかげさまで1997年に地球は滅亡せず、26歳を無事超えて、その年齢から倍近くになった今も僕は生きている。生きてはいるが不安だけはまったく消えない。でもその不安は地球滅亡への恐怖によるものではないと知った。僕の常時抱える不安の原因は母から心理的ネグレクトを受けて育ったことにある。それ以上でも以下でもない。

昨今の国際情勢を考えると、日本に向けて爆弾が飛んでくるのもまんざら絵空事ではなくなってきている。競技会に参加していた彼は今も爆弾を恐れているのだろうか。大地震の発生が危惧されてもいる。爆弾も落ちず、大地震も起こりませんように。今の僕は心からそう願えているだろうか。

ー 終わり ー


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