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内心の自由がないと本当の自由はないと納得できた

妻と出かける約束をしていたのだが中止となった。少しだけ妻に落ち度のある理由からだった。それだけのことだった。

その日の夜、布団に横になり目を閉じると息が苦しくなる。大きく息を吸いこむ。吐くと深い溜息になる。横で眠る妻に迷惑をかけてはいけないので起き上がり隣の部屋にいく。

誰に対してとか何に対してとかではない。これまでの僕の人生を振り返ったときの惨めさの全てが一斉に押し寄せてきた。「◯ねっ」「くっそ、バカタレっ」「この、くされ外道っ」言葉にせずにはいられなかった。

しばらくして布団に戻る。横になるとまた息が荒くなる。深い溜息をつく。感情の逃がし方がわからない。このまま気がおかしくなるのではないか。横にいる妻に気をつかい布団から出て隣の部屋へいく。

「この不安は今にはじまったものじゃない。これまでにずっとあった」気が狂いそうになりながら、時々そんなことを思った。

非力な赤子だった僕はあらゆる不安を泣いて訴えるしかない。今自分が感じている不安が何かなんて言語化できない。しかしどんなに泣いても母はやってこない。抱きしめてくれない。

これだ。僕が赤子のときに感じていた不安の正体はこれだった。そしてその不安は今ここにもある。こんなの非力な赤子に耐えられる質の不安じゃない。だって五十一歳の僕だって気が狂いそうになっているんだ。

僕はひと晩中、溜息と舌打ちと悪態をつき続けた。一睡もできなかった。

二年前のカウンセリング初日にカウンセラーから、「本当の感情を抑えているのかもしれませんね」と言われたことがある。

その夜、僕は初めて本当の感情を表に出せたのかもしれない。でも意図してやれたわけじゃない。これまでみたいには感情を押し殺せなかっただけだ。

薄紙がまた一枚剥がれた。感情をあらわにするのは悪いことだと思ってきた。感情をあらわにすると他人との関係が壊れてしまうと思ってきた。

考えてみればそもそも僕には壊れてしまう人間関係なんてない。誰とであっても人間関係を築けないのが僕だ。何も気にする必要はない。

あの人はいい人だ、と思わなくてはならない。
この一見不幸に見える出来事は将来的には僕にとってよい結果を生むに違いない、と思わなくてはならない。
僕は今幸せだ、と思わなくてはならない。

そんなのどうだっていい。自分のなかでなら何をどう思おうが僕の勝手だ。

あの夜、感情を抑制できない自分を幼稚だなと思った。情けなかった。でも赤子のときから感情を抑えてきたのだから本音の扱い方がわからないのは仕方ない。

図体はおっさんだが、感情の扱い方については三歳児くらいだ。犬と同じくらいの精神年齢だと思えばいい。ただし犬より理性はある。かわいらしさでは惨敗だ。

ー 終わり ー

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