23.水瓶座の時代の生死観。
今、世界観が大きく変わろうとしているのが感じられています。
その世界観とは、生死観もふくめた大きなサイズでの世界観のことなのですが、そのあたりからが、今、ゴロンと大きなパラダイムシフトしようとしている感じがあります。
そのことについて書くために、まずは、今までの旧来の生死観がどのようなものであったのか?をはっきりとするために、「生きとし生けるもの」というひとつの言葉にフォーカスしてみたいと思います。
この後の文章は、私が「生きとし生けるもの」について、今年2022年の3月くらいに書いたものですが、まずはその引用から始めたいと思います。
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「生きとし生けるもの」という言葉を、ときどき目にすることがあると思います。
ネットで調べてみると、この言葉は、10世紀初めに編纂された『古今和歌集』の和歌の中でも使われている言葉なのだけれど、この言葉の始まりは不明となっていました。
つまり、この言葉は今でもときどきは見聞きする言葉なのだけれど、もともとは、すくなくとも、古文なのだということがわかります。
私はかなり若い頃からこの言葉に引っ掛かりを感じていまして、若い頃というのは20歳前後の頃からです。「生きとし生けるもの」の言葉の後半のほうの「生けるもの」は理解できるのです。これはストレートに「生きているもの」という意味になります。でも、前半の「生きとし」の意味が、どうしても分からなかったのです。
20歳の頃私は、仏教系女子大の文学部日本文学科に通っていまして、それまで高校とか大学受験の勉強とかでさんざん古文はやってきたはずなのですが、その経験を生かして、この「生きとし」を文法的に解釈してみようと何度か試みたのですが、ことごとく失敗に終わっていました。
ようするに意味が分からないのです。
「生きとし」の「と」「し」がどういう意味なのが分かりませんでした。それでいろいろ考えるわけです。「生きようとして」という意味なのかな? だとしたら、この「生きとし生けるもの」とは、かなり積極的に本人の中では「生きたい」という熱意が隠されていることになるよな~、とか、いろいろ考えていました。
環境を生かして、大学の教授に尋ねてみたことがあるのですが、聞いた相手が仏教学の教授だったためか、答えはひとこと「自分で調べなさい」でした。国文学の文法の教授とかに聞かなくてはいけなかったのかも知れませんね。
今、ネットで、この言葉の文法解釈を調べてみたら、このように書かれているものを見つけました。
「生き」 動詞 カ行 四段
「生く」の連用形
「と」 格助詞
同じ動詞の間に入って強調する用法
その場合連用形に接続する
「し」 副助詞
上代では古事記の「大和しうるはし」のように比較的自由に使われ ていたが、平安には単独では「~し~ば」という条件の中でしか用いられな くなり、「しも」「しぞ」「しこそ」など係助詞の付いた形で用いられるようになる。
と、ここまでは、このお話の前段階です。ここからが今日、書きたかったことになります。
以上のように、長い間この言葉は私の中で、何かこだわりを感じられるのだけれどスッキリできないままくすぶっていた言葉だったわけなのですが、きのう、それが解明されたのです!。
きのう読んでいた本に「生き通し」という言葉が出てきまして、「あぁ、これだ!」と瞬間的にピンときて、そして、腑に落ちて納得することができました。
「いきとおし」の「とおし」は、言葉として発音したときには「とーし」となると思いますが、この「お」「ー」が欠落したのが「生きとし」だったのだと、魂が喜ぶレベルで納得がいき、数年来のもやもやが解消されたのです。
「生き通し」という言葉とは、私は昨日初めて対面したのですが、この言葉は「魂」は輪廻転生を繰り返し、何回も何回も「生き通している」というような意味なのだそうです。
古代の人たちは、みんなそんな生死観を持って生きていたのでしょうね。だから「生きとし」は「生きとーし」つまり「生き通し」だった。だけれども、そのような生死観が欠落するとともに、「生きとーし」は「生きとし」になって、ちょっと意味不明な言葉になってしまっていたわけなんだと、私は深いところで納得しました。
今の時代、この「生き通し」の生死観を取り戻すことで、楽になったり幸せになったりすることができますね。
そうでないと、私たちは、ちょっと「土」のエレメントのほうにウエイトが掛かり過ぎている時間を長い間過ごしてきたので、身体=土のエレメントの一部から「さようなら」をした後のことが、あまりにもお留守になってしまっていると感じるわけです。
そうか
そうか
生き通しだったのか
「生き通し生けるもの」という言葉は
なんてやさしくて
光に満ち満ちているのだろうか
と、私はとてもうれしくなってしまいました。
ちなみに、きのう読んでいたその本は『喜びの今を生きる 医学、物理学、霊学から観た魂の来しかた行くすえ』 明窓出版。
保江邦夫さんと
はせくらみゆきさんと
矢作直樹さんの鼎談の本です。
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以上が、引用になります。
この「生きとし生けるもの」という言葉の本当の姿は「生き通し生けるもの」なのではないか?とわかったときに、私のイメージの中には、ひとつの生が輝く球体として見えてきて、その球が、一本の糸で貫かれてつながっているイメージが出てきました。
つまりひとつひとつの人生が、ひとつの真珠のような珠に見えて、その珠どおしが、ネックレスや数珠(じゅず)のように一本の糸でつながっている、そんなイメージですね。
過去世・来世という概念も、このネックレスや数珠(じゅず)のような、一本の連なりのイメージからきている言葉になるわけです。
私というのはひとりで、そのひとりは何度も生まれ変わっていて、現世もあれば過去世もあったし、そしておそらく来世もあるであろうという、一本の時間軸の上に生死観が成り立っていたのが今まで、ということが出来そうです。
それが、今、大きく変わろっとしていることに、気が付き始めました。
水瓶座の時代が本格的になる、来年2023年からおよそ25年間の間に、この「単一のわたし」ということをベースに成立していた生死観そのものも、変化して行く可能性がとても大きいことに気が付き始めたのです。
そう、ひとことでいったら、水瓶座の生死観は、この「生き通し生けるもの」のように、「単一のわたし」をベースにはしていなくて、それとは正反対の「偏在するわたし」をベースにした拡散型であるであろうと思うようになりました。
このあたりのことは、私自身の中でまだまだ進行形で手探りな状態のことではあるのですが、とても関心のあることでもあるので、文章に書けるくらいにまで固まってきたら、また次を書いてみたいと思っています。