「黒旗軍」と19世紀末・東アジアを戦い歩いた男の物語
今回はベトナムと中国、更にはフランスや日本の歴史にまでその痕跡を残し、自身の軍団を率いて戦い歩いた男の人生に関わる歴史のお話です。戦い歩くのとは縁のない、戦争反対・平和主義の筆者ではありますが、とはいえ19世紀末という変革の時代に、アジア横断的に、抵抗のための戦いの人生を送った物語には、かなり魅かれるものがありました。彼の名は劉永福、彼が率いた軍団の名は「黒旗軍」と言います。
黒旗軍、劉永福との出会い
そもそもこの黒旗軍に興味を持った、というかその存在を知ったのは、太平天国の乱に関しての本を読んだことがきっかけでした。この乱の出発点となったのは現在の広西壮族自治区、ベトナムのお隣にあたるところです。
「こんなに近くで起きた中国全体(特に華南中国)を揺るがす大きな反乱なら、何がしかベトナムにも影響があったりしたのかなあ」とネット上で調べていると、面白い人物を見つけました。その名は劉永福(ベトナム語名:Lưu Vĩnh Phúc)。彼は敗れた太平天国の残党とされ、現在の広西チワン族自治区防城港出身で、太平天国の乱後に黒旗軍という武装組織を結成します。ベトナムでは阮朝を助けフランスと戦い、そして後には清王朝を助けまたフランスと戦い、更には日清戦争時には台湾防衛のために日本とも戦う、という東・東南アジアを戦う大忙しの軍人だったのです。正に太平天国インスパイアの秘密結社スピンアウト、といった感じでしょうか。
「秘密結社」(!?)黒旗軍の結成
調べていくと劉永福自身が天地会のメンバーでもあり、多くの天地会系グループが合流していることから、黒旗軍は中国のメジャーな秘密結社(「メジャー」で「秘密」というのは言葉矛盾しますが)である天地会の流れを引く団体のようです。天地会とは、中国三大会党の一つである「洪門」と呼ばれるようになる秘密結社で、太平天国の乱にもこの天地会関係者が多く加わったりと、元々荒っぽいことも厭わない人々の集まりであったことは想像に難くないです(中国の秘密結社については、以下noteでご紹介した「現代中国の秘密結社」をご参考ください)。
黒旗軍の名前の由来は、そのリーダーであった劉永福が、軍に対して指示を出す時に黒い旗をつかったことからとされています。その後、太平天国の乱においては清朝軍の掃討に遭い、劉永福らは現在の中越国境地域に活動地域を移すことになります。
黒旗軍が活躍する19世紀後半という時代・地域情勢は、太平天国の乱、雲南省におけるイスラム系住民の反乱であるパンゼーの乱、そして阮朝のフランス侵略への抵抗など、現在で言う中越国境地域がダイナミックに動いていく時期でもありました。そんな中で黒旗軍も現在でいう中越国境地域で、勝手に独自の勢力圏を築く役者の一つでした。
ベトナム(阮朝)を助けフランスに挑む
劉永福がベトナム領地に入ったのは1865年頃とみられ、現在のラオカイ周辺を根拠地として、この地域の貿易活動に対して庇護を与えつつ、そこから「関税」(ショバ代?)という形で収入を得ていました。当時、太平天国の乱が終結した清朝領域から多くの残党兵グループが現在のベトナムに流れ込み、山賊グループ(土匪)が割拠していたため、当時の阮朝Tự Đức(嗣德)帝は治安維持に苦慮していました。そんな中、黒旗軍の劉永福は阮朝に近寄ることに成功し(ある意味自身も「土匪」の一人であったようなものですが)そういった残党兵グループを征伐する役割を担うこととなりました。
黒旗軍と阮朝との特殊な協力関係が出来上がった時期は、図らずもフランスのベトナム侵出が進む時期でした。アヘン戦争で勝利したイギリスが香港を始めとした植民地権益を築く中、フランスもベトナムへの武力を伴う進出を厭わなくなります。1847年ダナンへの砲撃に端を発し、第二次アヘン戦争ともいわれるアロー戦争(1856-1860年:清朝VS英仏連合軍、北京の円明園が破壊されたことでも知られる)に勝利したフランスは阮朝へ更なる要求を突きつけます。1862年には南部コーチシナ三省を割譲する条約を当時のベトナム・阮朝は強いられ、ここから本格的なフランス植民地時代が幕開けとなります。
その後、上記した中国・雲南省でのパンゼーの乱に武器を提供することを商機ととらえたフランス人商人ジャン・デォピュイなどに便宜を図るため、フランス側は紅河の水路解放を要求。それをNguyễn Tri Phương(阮知方)が拒否すると、フランス海軍大尉・フランシス・ガルニエはハノイを襲撃、占領します。Nguyễn Tri Phươngは重傷を負い、フランス側の提供する薬や食事を拒否して絶命します(上掲写真は仏軍に攻められるタンロン城の様子です)。
そんな中、土匪討伐という用心棒的役割に加え対フランスの防衛業務も頼まれていた黒旗軍が起こした事件として著名なのは、1873年12月21日の「カウザイ事件」です(そう呼ばれているかは不明ですが)。カウザイ(Cầu Giấy:紙橋)と言えば、ハノイ在住の日本人には聞き慣れた地名。今ではビルや住居が密集し、日本人や外国人も多く住むエリアですが、当時は「ハノイ市内郊外」といった地域だったよう。その「紙橋」近くで当時のフランス海軍大尉・フランシス・ガルニエを黒旗軍が殺害したのです。それを契機に再度双方で話し合いが行われ、ハノイ占領は解かれ、新たな合意がなされました。その後のフランスのベトナム植民地化を押し止めるには至りませんが、とはいえ、植民地化を進めるフランスに対しての黒旗軍の「用心棒」地位は、かなり高いものだったと考えられます。
今度は清朝を助け清仏戦争へ参戦
更に時代が進み、ベトナムの「保護国」としての地位を争う形になった1883~1885年に起きた清仏戦争。アヘン戦争などと比べると日本人にとっても馴染みが無いかとは思います。ですが、その終結時に締結された天津条約によって、ベトナムが中華世界からフランス植民地へと、自身が望まない形で引き離されたという意味で、ベトナム歴史上においても非常に重要な意味を持つ戦争でした。また、実際の戦場は主にベトナム北部(台湾での戦闘もあり)だったのですから、影響の大きさは当然です。
「清 vs 仏」という戦争の構造の中で、中国人軍団としての黒旗軍は、今度は清朝から支援の要請を得ます。そして当時すでに弱体化していた阮朝軍に代わり、清朝の広西、雲南の軍勢と共にフランス軍と対峙する構造になりました。阮朝につきフランスと戦い、今度は清朝につきフランスと戦う、現在の中越国境地域に根を張り変幻自在に戦う黒旗軍にはフランス軍も相当手を焼いたそうで、清仏戦争自体は決定的な勝利を両者とも得なかった一方、フランスのベトナム植民地化は天津条約で更に確実なものとなりました。
清仏戦争当時、フランス軍の従軍医として、また当時の貴重な写真を残した著書(の越語訳)「Một chiến dịch ở Bắc kỳ」(上掲ツイート参照)では「戦った相手側の首は直ぐに切り取られてしまう」と、黒旗軍の残虐なやり口を伝えています。上記「カウザイ事件」でも同様に残忍な殺され方が強調されていますが、敵として戦ったフランス側から見たら、黒旗軍の戦いぶりはそれは野蛮なものに見えたでしょう。ただ西欧列強の侵出に抵抗しようとしたアジア人たちの抵抗の歴史として見れば、また違った様子が映し出されるかもしれません。
そして日清戦争へ:台湾防衛のため日本と戦う
清仏戦争後、劉永福は今の広西壮族自治区欽州市に戻り官職を与えられるも、私兵団のような存在であった黒旗軍はその人数を削られて、300人程度にまでなってしまいました。そんな時期も束の間、今度は清朝政府から台湾防衛という任を与えられます。「ベトナムというはるか南の地で、フランス軍と戦っても一歩も譲らなかった」という武勇からでしょうか、彼に白羽の矢が立ったのです。生来の戦いの本能がそうさせるのでしょうか、彼は台湾へ向かいます。
1894年9月に台湾防衛のために台南に入った劉永福と黒旗軍。しかし、日清戦争の戦況は既に劣勢でした。翌年4月には下関講和条約が締結され、清朝政府は台湾の日本への割譲を認めます。実効支配を行うため日本軍は南進を続ける中、日本による占領に反対する台湾の人たちは「台湾民主国」を設立し、南に拠点を移しながら抵抗を続けます。そこで地元民の信頼を勝ち取った劉永福と黒旗軍は、最後には「台湾民主国」のために、台南で日本軍に対して抵抗を行います。台湾出兵後、主に大陸から応援に駆け付けた清朝兵には苦労しなかった日本軍も、地元の人たちのゲリラ戦と共に勇敢に戦う黒旗軍には相当苦労したそうです。しかし、善戦むなしく敗れた劉永福は、1895年10月に厦門へ逃れます。
「抗う戦い」に捧げた一生
中越国境あたりでの抵抗戦争は、ある意味元々彼の地盤であった場所で起きた戦いでもあり、戦ったのは自然だったのかもしれません。でも何故彼は、元々縁もゆかりも無い台湾のためにまで戦ったのでしょうか?日本軍と戦う理由として彼は「清仏戦争ではフランス軍を破りながらも、戦争の結果やはりベトナムはフランス植民地となってしまった。台湾ではそれを繰り返したくない」という想いがあったとも言われています。もしかしたら、それは彼の生来の「抗う」本能がそうさせていたのでしょうか。(日清戦争期の劉永福に関する記述は「台南の劉永福 : 「奉旨剿滅倭寇」の黒旗」を参照しました。)
劉永福に関しては「残酷な山賊だ」「大言壮語が過ぎる」という評価があったそうですが、今は「植民地主義に抗った英雄」という評価が強いよう。でも、物語と史実が混ざり合うような、まだベールに包まれたところもありそうです。ただともかくも、同時代人からも一目を置かれる軍人であったことは確かなよう。後に辛亥革命を起こす孫文とも親交があり、またベトナム独立運動の指導者・ファンボイチャウ(Phan Bội Châu)は1905年に広州に彼を訪れており、後に「ベトナム援助軍の指導をして欲しい」と懇願までしたそうです(さすがにその頃は70代と高齢になっており、断ったそうですが)。
ベトナム、中国、そしてフランスや日本の歴史にまで登場するこの劉永福と黒旗軍。掘っていくとまだまだ出てくる歴史秘話がありそうです。次回は今のベトナム・ハノイや中国に残る劉永福、黒旗軍の痕跡を辿り、自由に旅行ができるようになった時を夢見ながら、その歴史の地へ思いを馳せてみたいと思います。