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Bạc Liêu省の華人ー「華人の街」と呼ばれた街で

「華人の街」だったバクリュウの過去と現在

メコンデルタの華人シリーズ、第3弾はBạc Liêu(以下「バクリュウ」)省の華人についてです。バクリュウ省はメコンデルタの南沿岸地域で、ソクチャン省の東側に位置する省です。バクリュウ省人口は約90万人、内華人15,865人(2019年人口センサス)と、人口に占める華人率は約1.75%、メコンデルタの華人「比率」としてはソクチャン省に次いで多い省です。ただ1.75%と言われると「沢山いるなあ」という風には聞こえないかもしれません。しかしそこには既に多くの住民間の婚姻関係で様々な民族概念が混ざっているという現実に加え、歴史を紐解いてみると非常に華人の役割が大きかった省・地域であることがわかる、とても興味深いバクリュウ省です。

メコンデルタ南端地域のバクリュウ省

以下で紹介した著作「メコンデルタ:フランス植民地時代の記憶」で、メコンデルタ地域農村社会調査を数多く行った高田洋子先生をして「バクリュウは何といっても華人の街」と言わしめたバクリュウ省。ここは、華人にとってどういう場所なのでしょうか?

バクリュウ省華人の会館、旧跡

そんなバクリュウ省、まだまだ多くの場所に足を運べたわけではありません。ただまずは華人文化・社会の象徴である各種会館が集中的に残る、バクリュウ市中心の趣に惹きこまれていきました。この街にも多くの古廟が残りますが、沿岸地域という地理的要因もあってでしょうか、関帝廟よりも天后廟がより大きな存在感を示している感があります。海を渡ってこのバクリュウ省にやって来た華人の皆さんがまず祈念するのは、航行の安全であるとすれば天后がより多く祀られるのも自然な気がします。

街でひときわ存在感を示す天后

市場の近くには小さいながらも辺りを見渡す存在感で中心に鎮座する天后廟が。この小さくも凛とした天后廟を眺めながら頂くベトナムコーヒー(或いはフルーツスムージー)は既に自分の中でもメコンデルタ・ベストビュー候補です。

市場のすぐそばには天后廟

そして、ここにも広い敷地にスゴイ存在感で残る華人家族たちのお墓。やはり他のメコンデルタ地域の例に漏れず、最も多いのは潮州出身者だそうで、墓碑にある出身地には「普宁」「揭阳」など、潮州人の故郷である「僑郷」の地名が多く見られます。

広い敷地に数多くある墓碑には出身地の地名が。

「バクリュウのお坊ちゃん」からみた華人経済とバクリュウ

そんな華人にまつわる古廟があるとはいえ、観光地がいっぱいとは言えないバクリュウ省。そんなバクリュウの街で省外からの観光客を集める場所があります。それは「バクリュウのお坊ちゃん;Công tử Bạc Liêu」の旧宅です。

バクリュウのお坊ちゃん、ことTrần Trinh Huy(1900 – 1974)は20世紀初にその贅沢なライフスタイルが有名になった大富豪で、彼のプレイボーイ振りも相まって後に映画にもなったりと、仏植民地下における富の偏在を象徴する人物でした。1930年代のベトナムで、彼は同国史上初めて「プライベート飛行機」を所有していたというから驚きです。

Công tử Bạc Liêuの栄華を偲ばせる旧宅

その富は父の世代に蓄えられたもので、父であるTrần Trinh Trạch(陳貞澤)は潮州華人の地を引く人物でした。Biên Hòa(現在のĐồng Nai省)で生まれた彼はバクリュウに移住した華人の家に生まれた彼は、フランス人の家で働きながらフランス語を学び、バクリュウの農地開拓から製塩業に乗り出し成功を収めました。当時から今に至るまで、塩はバクリュウ省の特産品。そこで成功したTrần Trinh Trạchは後にベトナム人として初めての民間銀行を開業、サイゴンでもTứ đại phú hộ(四大富豪)に数えられることもあるまでにビジネスを拡大しました。

フランス植民地時代のベトナム経済、特にベトナム富豪層における華人の存在感については別稿で書こうと思いますが、華人の活躍が多かったこの省には、20世紀初頭の段階で土地「所有規模が500ヘクタール以上の大地主が47名存在した」(コーチシナ全土の約4人に1人、「メコンデルタ:フランス植民地時代の記憶」p51)そう。富豪の多かったバクリュウ、そこでの華人の役割が強かったんだろうことを、バクリュウのお坊ちゃんは教えてくれます。

「やんちゃ」な華人社会が歩んだ歴史

増える経済的な重要性に加え、このバクリュウ省が地域の中心として早くから植民地政府拠点が置かれたもう一つの理由には、この地域での華人社会がかなり「やんちゃ」な人たちを含んでいたからという歴史を物語る記述もあります。再び上記「メコンデルタ:フランス植民地時代の記憶」(著:高田洋子)によると「越境する中国人を取り締まるために、フランス植民地政府は、当時のソクチャンとラックザーの両管轄区から、それぞれの一部を切り離して新しい省に統合」してできたのがバクリュウ省だとあります。

バクリュウに限らず、19~20世紀のメコンデルタ地域では「天地会」系の秘密結社が躍動していたというのは、多くの歴史記述が一致するところです。ここでいう「秘密」という言葉が裏社会感を強く醸し出しますが、海外に出て行った華人社会が異国の地で、血の繋がりを持たない、けどルーツや言語を一にする人たちと団結して助け合うための互助組織として、こういった組織は機能していたことと知られています。ただその中の「やんちゃ」分子はリスキーなビジネスや犯罪行為に及んでいたのも事実なようです。(中国の秘密結社に関しては、以前読んだこちらも参考にしています。)

ベトナムにおける天地会は、海外に出た同胞同士が助け合う互助組織、アングラなビジネスを取り仕切るマフィア的な側面、そしてもう一つはフランス植民地政府に抵抗した「ベトナム愛国組織」としての側面もあります。こうした華人(組織)の側面も、まだ知られざるベトナム史の一面と言えるのではないでしょうか。

こちらnote記事で紹介した「Phan Xích Longの反乱」に象徴されるような、フランス植民地支配期のベトナムを違った形で描くヒントがあるような、そんなことを思わせてくれるバクリュウ省の華人模様でした。

11年間ベトナム(ハノイ)、6年間中国(北京、広州、香港)に滞在。ハノイ在住の目線から、時に中国との比較も加えながら、ベトナムの今を、過去を、そして未来を伝えていきたいと思います。