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ベトナムの中の中国・中級編:ハノイに残る華人社会の面影を探してみる
大分前になりましたが、前回ベトナムの中の中国:ベトナム(ホーチミン)の華人社会・入門編を書きました。そうは言ってもアウェイで、なかなか実際に行ってみることができないホーチミンに比べ、ハノイは何と言ってもその場に行ってみることが容易にできます。というわけで、今回はハノイにおける華人社会、その名残を巡りながら、ハノイにおいて「中華街」があった頃を空想してみたいと思います。
ハノイ旧市街には「中華街」があった!?
ベトナムの首都ハノイ、これだけ中国に近い東南アジアの大都市、ですがいわゆる「中華街」はありません。ホーチミンにあれだけ色濃く華僑・華人社会が存在するのに比べても、違いは非常に鮮明です。もちろんそこには重い歴史があるわけですが、それはまたの機会に書くとして、1970年代以前にはかなりの華人がハノイにもいたとされています。
華人がいた、どころかフランスがハノイを統治し始めた19世紀後半では「華人がハノイの経済を握っていた」と清仏戦争期1884-1886年にフランス軍従軍医としてベトナムに来た医師の著作でも称されるほど、在ハノイ華人の存在感は大きかったことが伺えます。
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在来華人とは違いますが、以下noteで書いた、19世紀末に阮朝と協力した黒旗軍、劉永福なども、ハノイに駐留した際には当時華人が多かった旧市街エリアを拠点としました。中でもマーマイ通り(phố Mã Mây)は黒旗軍が駐留していたことから、フランス人たちには「黒旗通り:phố Quân Cờ Đen (rue des Pavillons noirs)」と呼ばれていたそうです。今でいう中国・広西からやってきた彼らも、当時の「中華街」を頼っていたと想像されます。
更には現代史において、日本とのかかわりも非常に深かった汪兆銘がハノイに一時身を寄せていたことはご存知でしょうか?その時に滞在したのも旧市街、1939年にハノイで起きた「汪兆銘暗殺未遂事件」の舞台も「ハノイ中華街」だったのです。
ひっそりと残る、ハノイ華人社会の面影
それではここから、Twitterで連ツイした内容を補足しながら、現在のハノイに残る華人社会の面影を追っていきましょう。まずは食べ物から(笑)。
急に時間ができた連休3日目。天気が良いので旧市街を歩いてみることに。テーマは「ハノイ旧市街に(頑張って)中華街の面影を探す」。諸々はnoteにまとめたいが、違った視点を持って歩くと街が違って見えて楽しい。東河門近くはよく見るとワンタン麺屋が多い。美味。これも昔の名残かな。#中越関係 pic.twitter.com/tlzzfjyIaM
— 今井淳一@ハノイ (@imajun) May 2, 2022
そして漢方薬街 phố Lãn Ôngへ。ちなみにこの「ランオン」はベトナム伝統医学の祖とされるHải Thượng Lãn Ông(海上懶翁、本名Lê Hữu Trác:黎有晫)に由来します。
Hàng Vải通り進むと漢方薬街Lãn Ôngに。漢方薬屋が多いこともありハノイの中では珍しく店名や建物などに時折漢字が見られる。左手には福建会館跡地が。現在はその建物の一部はHồng Hà小学校となっていて、中には入れない。隙間から中の写真をパシャリ。ハノイの華僑関連史跡は入れないものが多い。 pic.twitter.com/WtVJdb1FjL
— 今井淳一@ハノイ (@imajun) May 2, 2022
肝心の、というか数少ない公開されている史跡である白馬祠に「定休日」のため入れないという不運にもめげず(また別の日にチャレンジ、でも既に詳しいこちらサイトなどを読んで勉強します)進みます。
Hàng Buồm通りに進むと白馬祠、でも月曜日で閉館…。なので更に進み、400年前まで歴史を遡る「粤東会館」(広東会館:22 Hàng Buồm)へ。中が綺麗に改修され一種の映えスポット&文化展示会場っぽくなっている。放置されるよりは全然良いと思うが、本来持つ歴史的意味合いの紹介少なく、少し微妙…。 pic.twitter.com/F0UYKoBqJg
— 今井淳一@ハノイ (@imajun) May 2, 2022
この福建会館や広東会館に属する形で、1960年代までは福建系、広東系華人子弟のための学校もあったそうです。今ではハノイに日本人学校、韓国人学校はあれども、中国人学校はありません…。
28 Hàng Buồmには関帝廟(đền Quan Đế)が!は何度も通ったが初めて気づいた、いや修復してたそうだから最近開いたのかもしれない。ここも何故かフーイェン省観光振興展示場になっているのが謎で、もっと関帝廟自体を強調して紹介すれば興味深いだろうに…。#中越関係 https://t.co/s1oan48GCB pic.twitter.com/7BsvYONyUZ
— 今井淳一@ハノイ (@imajun) May 2, 2022
このように、確かにハノイにも中華街と呼べる華人エリアがあったのです。そしてその歴史を感じさせる史跡も残っています。そして以下のように、日本も関連する現代史の重要な局面にもハノイ中華街エリアが舞台となったことが…。
1939年3月、日本政府の庇護もありベトナム・ハノイに亡命していた汪兆銘。蒋介石の国民党・重慶政府が彼の暗殺を企てた未遂事件があったとされるハノイ市旧市街Chợ Gạo通りと周辺。当時の汪兆銘の住居はどれかわからないが、82年前の歴史ドラマに暫し心を寄せてみる。https://t.co/7X42DLQy9w pic.twitter.com/8pwq9XHueH
— 今井淳一@ハノイ (@imajun) March 22, 2021
ハノイで華人関連史跡を保存する悩ましさ?
これらの(少なくとも私にとっては)大変興味深い面影の数々。ただ、上記紹介したツイートでも触れていますが、折に触れて感じるのはその保存に対する市の微妙な態度です。例えば粤東会館(広東会館)、上記のように綺麗に改修をしつつ、そこは今後のハノイの芸術家に展示空間を提供するのが主たる役割かのようにも思えます。勿論それ自体は意味があるとは思いますが、敢えて広東会館を舞台にしてやる必要があるのか、少し疑問にも思えます。
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例えば、中国の革命家孫文(広東省出身)が1904年、辛亥革命の前にここに立ち寄ったことを示すプレートの解説など、往時の広東会館の重要性について説明するスペースもありますが、それは上記の「映え」スペースの横の展示室にひっそりと置かれています。歴史好きにとってはこういった部分こそが色々なインスピレーションを感じるところかと思いつつ、それら「広東会館」としての展示はむしろ限られたものになっています。
その他、関帝廟でベトナム南部フーイェン省の観光プロモーションイベントが幅を利かせていたり(そのせいか関帝廟目当ての訪問客はほぼゼロ)、福建会館のように既に他の用途に使われているせいか立ち入り自体ができない建物も多いです。ホイアンなどでそういった施設が、それ自体の歴史紹介と共にすっかり観光地化しているのとは、とても対照的です。
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予算が付いたりして修復作業などされているように見える一方、「華僑・華人文化」が色濃く見えるような展示はしない・公開しない、そういう姿勢に見えるハノイの中華街(だった場所)。現在も華人社会が生きるホーチミン、華人社会の名残をはっきりと保存・活用するホイアンと違うハノイ。そこには両国が長きにわたり、そして近・現代には激しい戦いも含め、築いてきた複雑な関係、その前線に近かった首都ハノイの思いが見え隠れするような感じがします。
ちなみに今回訪れた場所は以下マップのハート部分です。全てホアンキエム湖から徒歩圏内。ハノイに来られたら、そして在ハノイの皆さんは宜しければ是非ご自身で散策されてみては如何でしょうか?
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