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【掌編小説】夏の日曜午前10時、喫茶店で

日曜の朝、カーテンを開けて顔を洗い歯を磨きながら(ちなみに私は10分ぐらい時間をかける)、喫茶店『樵の家』に行ってアイスコーヒーを飲むことを断固決意した。そして、買ったばかりのジョン・アーヴィングの本『第四の手』を読む。私にとってそれは何よりも効く精神安定剤で、この瞬間たまらなく欲している行為だ。今、私の精神は赤ランプが激しく点滅を繰り返し、その危機を知らせ、私に即座の治療を急かしている。私は歯を磨きながら店内に居る自分を想像する(今は上の奥歯を念入りに磨いている)。入り口からもっとも離れた壁側の窓のない2人掛けのテーブル席を陣取る。その席に座ると目の前の壁にカンディンスキーの絵の小さな複製が飾られていて、私は読書に疲れるとぼんやりとそれを眺めるのをルーティンとしている。注文は当然、アイスコーヒーの大で、ミルク、砂糖はいらない、食べるものもいらない。空きっ腹にブラックのアイスコーヒーをぶちこむのだ。想像するだけで、私の精神は落ち着きを取り戻し、日曜の神聖さを獲得する。私は歯磨きを終え、口の中をすすぐ。タオルで口をふき、洗面台の鏡を見る。そこには哀れな社会人3年目の自分がいた。私は泣きたくなる気持ちをなんとか押さえようとした。鏡から離れる。

夏の暑い午前10時の日曜日に、私はユダヤ人の商店を取り調べに行くゲシュタポのように喫茶店『樵の家』に開店と同時に足を踏み入れた。私は想定どおりのテーブルにつき、想定どおりの注文をした。客は私だけだ。いつもの学生の女性店員が、いつもの愛想で注文を受け、いつものようにポニーテールを揺らしながらマスターに注文を伝えに行く。私は一息つき、全てが予定どおりに進んでいることに幸福を感じた。そして、漆黒の液体が来るのを日曜礼拝のクリスチャンのように待った。私は厳かに鞄から文庫本を取りだし、裏表紙を表にしてテーブルに置いた。ほどなく女性店員がアイスコーヒーを盆に載せて来る。そして、私の前にグラスが置かれる。

私はコーヒーの黒にうっとりする。特にグラスに入ったアイスコーヒーには。私は美の観点からミルクを入れない。だからといってカフェラテ等を飲まないわけではない。最初からミルクが入った状態で出されるものは普通に飲む。自分で汚したくないのだ。この美しい黒を。さらに、他人がそうしてるのを見るのも嫌で、コーヒーに白い液体がかけられ、ストローで混ぜられ濁っていく有り様を見るのは名画にペンキをぶちまけるような美に対するひどい冒涜を感じてしまう。ああ、きっとこれなのだ。私がこの社会で生きづらさを感じるのは。

社会は白色を求めている。白こそ美しく、清潔で、純潔なのだと。だからこそ、黒を白で汚すことに何のためらいはない。逆に綺麗にしたんだと思っている。一般に白は汚されて黒に近づくと考えられ、その逆は無いとみんな思い込んでいる。だが、私が生きる社会は黒こそ白に犯され、領地を奪われている。純白のウェディングドレスの花嫁がタキシードに身を包んだ花婿を不幸に落とすことがある事を世間は知っているはずなのに…。この価値観の違いこそ私の悩みの原因で、コーヒーが教えてくれた。対処法がなくとも原因が分かっただけで解決した気になる。私は感謝の意を込めて黒い海に半身を沈ませたストローを一回りさせた。氷とグラスがぶつかり透明な音を立てる。

コーヒーを口に含むと、舌に苦みと甘みがたおやかに触れ、数百ともいわれる香り成分の複雑な調和が口内に瞬く間に広がり鼻腔をくすぐる。この味と香りは瞑想を誘う。私は目をつむり、薄く流れる店内BGMを讃美歌のように耳を傾けながら、舌に残る清潔な苦みの余韻に浸る。静謐な時を過ごす。私はおもむろに文庫本を開き読み出す。ジョン・アーヴィングを知る人はこういう時に読むのに適さない作家なのではないかと疑義を挟むかもしれない。死と暴力と汗と性がパワフルに展開するストーリーに合わないだろうと。だが、一度試してほしい。ジョン・アーヴィングの宗教的な側面と見事に合う。おすすめだよ!…本を読み進めていく。主人公のパトリックはライオンに左手を食われ、手を失ってしまう。これでこそアーヴィングだよな!と感嘆し、本から目を上げると、私は違和感に気付いた。壁にカンディンスキーの絵が無い。私は不安に襲われた。ぽっかり空いた空間には無表情に壁が黙している。私は親を見失った子のように店内を見まわした。他の壁にも絵は飾られていたが、そこには見当たらず、移動したのではなさそうだった。私の前の壁だけが空白だった。私のそんな様子を見て、追加の注文だと思ったのかポニーテールの店員が体をこちらに向け、何でしょうか?という表情をした。私は小さくうなずき、店員も暇そうだったので思い切って聞いてみることにした。

「ご注文でしょうか?」
「あ、いや注文じゃないです。ちょっと聞きたいことがあって、そこの壁に絵が飾られていたと思うんですけど、どこにいったのかなと思って…」

店員は振り向いて壁を見た。
「あっ」
店員は初めて気づいたようだった。
「マスターに聞いてみますね」
店員は私に微笑み、ポニーテールを揺らしながら戻っていく。カウンター越しにマスターと会話をしている。意外と長く話していて、私は少し気恥ずかしさを感じた。

その他の店内の絵はバスキア風やウォーホル風のなんちゃって絵画ばかりであった。だから私はマスターは絵には興味はないだろうと考えていた。だが、不思議なことにカンディンスキーだけが本物の絵からの複製だった。『コンポジションⅧ』という絵だった。抽象絵画の傑作と言われていて、かつて私は多くの人と同様に、その分野をわけのわからない、解釈を拒む、お高くとまった、勘違いを誘発させる、お芸術と見なしていた。しかし、ある日私は今日のようにアイスコーヒーを飲み、ぼんやりとこの絵を眺めていると、直線と曲線、円と三角、四角と淡い色彩にリズムを感じ、旋律が聞こえてきそうな感覚が突然わが身を襲った体験をした。その体験以来、私はこのテーブル席を居城にした。

マスターがやってきてこう言った。

「あの絵ですが掃除中に落として、汚れてしまったんですよ。汚れは大したことないんですが、飲食店にはちょっとと思い、飾らずにいたんですが、もしよろしければ、お譲りしてもいいですよ」

私は是非譲っていただきたいと言った。
マスターは絵を取りに行き、手に額に入った絵をもって戻ってきた。
私は渡された絵を見て、目を疑った。それはマグリットの絵だった。首のない男がいて、顔があるべき場所に宙に浮かんだ青リンゴがある絵だった。私は何か侮辱された気持ちになり、疑惑と怒りの目でマスターを見た。しかし、マスターは温和な表情のままで、にっこりと微笑みかけている。私は言葉を失い、絵に視線を戻した。どう見てもマグリットの絵だった。それから、マスターが言う汚れらしきものは全くなく綺麗な状態に見えた。私はそれを持ち帰る気にはならなかったし、カンディンスキーの絵はどこですかと聞く気も起きなかった。私は力なく言った。

「この絵汚れているようには見えないですよ…」

マスターは絵を手に取り、老眼鏡をずらして、絵を前後して確認した。

「あれ、おかしいな?」

私は苦笑いしながら言う。

「また飾ってください」

マスターは首をかしげながらカウンター内に戻り、ポニーテールの子に絵を見せ、話している。

後日、私は再びこの喫茶店に訪れた。カンディンスキーがあった壁には、マグリットの絵があった。いつもの席で本を読んでみたが、なんだか顔のない男に見られているようで、居心地が悪く、集中できなかった。私はもうその店に行くことは無くなった。数か月し、店の前を通るとドアに閉店のお知らせの張り紙が張ってあった。入り口のドアの横には、ご自由に持ち帰ってくださいとマスターの字で書かれた悲しげな張り紙とともに、衣装ケースに様々なものが置かれていた。私はその中に額に入った絵らしきものを発見した。見慣れたカンディンスキーの絵だった。なんだあるじゃん!と私は懐かしい友人に会ったような晴れやかな気持ちで手に取ると、その絵にははっきり見てわかる大きな茶色いシミを見つけた。でもそのシミは作品を損なわず、別の意味や効果を与え、調和しているように見えた。私はそのシミから優しさのようなものを受け取った気がした。なんだか社会を許せるような、何よりも自分を許せるような、そんな広い気持ちになって軽い足取りで持ち帰った。

部屋に飾って何気なく見ていると、この絵の幾何学的な図形の連続は、この世界のプログラミングコードを表しているんじゃないかと考えるようになった。プログラミングコードでできた真の世界を、物質的な姿を取り払った、裸の、なまの、骨格の世界をカンディンスキーは捉え、キャンバスに写し取ったのではないか?そしてそのコードが誤作動を起こし、この絵のコード自身が起因となり、一時的にマグリットの絵に変えてしまったのではないか…。

もしかしたら、夏の日曜午前10時はそのバグを引き起こしやすい危うい時間帯なのかもしれない。


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