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【掌編小説】台風の夜に

台風が上陸している。窓ガラスを打つ雨。吹きすさぶ風の音。それらの強弱はリズムを拒否し、予期しなく、安全な屋内にいる私達の心を少しざわつかせてはまた去って行き、常にその訪れを予感させながら、私達はその雨音に耳を澄ます。

私は台風が来るとあの日を思い出す。私が小学生の頃、2年生の時だ。子供の頃の記憶でそれがいつだなんて覚えていない私だが、これだけははっきり憶えているというより、後で話すがはっきりとした『ある事実』から逆算して解っていることだった。

両親は共働きだったが、その日パートを終えた母は父を迎えに行くと言って、暴風の中、駅まで父を迎えに行こうとしていた。雨はまだ降っていなかったが、いつ降り出してもおかしくないくらいに不穏な風が渦巻いていた。母は玄関で靴を履きながら私にもし帰りが遅くなるようだったら、戸棚にあるカップラーメンと冷凍庫にあるものをチンして食べてと言い、幼い私は少し非日常的な興奮を胸に秘めながら車に乗り込む母を見送った。ふと上を見上げると空を埋め尽くす灰色の雲はものすごいスピードで流れていく。ドアを半開きにし、半身を出していると母を見送る私の横を強風がすり抜けて、玄関にあるメモ用紙やらチラシやらを勢いよく音を立てて飛ばしていく。私はそんなことを気にせず、母の車が角を曲がって見えなくなるまで見守った。その時の私は、テレビにあるような家庭像を見たような心持だった。控えめに言っても、父と母は仲は良くはなかった。絶えず口論し、母はヒステリックになり、父はより強固に頑固になった。それは私の心をいつも苦しませた。だが、この台風の日は、母は父を想い、父は母が来ることを待ち、それはそれは私の目に、あるべき夫婦の温かなイメージを想起させ、そして自分はそのあるべき夫婦のあるべき子供になっている感覚を不思議な気持ちで、それでいて何か歯がゆい気持ちを感じながら、一人リビングに戻った。

独りでいることには慣れていた。雨戸がガタガタと鳴る中、私は広いリビングを独占できる解放感と、この時間にリビングの大きなテレビでゲームが出来る喜びと、父と母の帰りが遅れた場合には何を食べようかという想像を楽しみ、自由を堪能しようとした。まず私は手始めにキッチンの戸棚を開け、どんなカップラーメンがあるか品定めすることにした。醤油味のカップラーメンと、カレーうどんがあった。思ったよりラインナップは貧弱だったが、そこに私が好きなカレーうどんがあったことに素直に喜んだ。次に冷凍庫を開ける。ラップに包まれた白米、ほうれん草、ミニハンバーグがあった。もちろん、ハンバーグ一択だった。普段弁当に入るときには一個だが、今宵は2個食べても怒られはしないという妙な理屈を信奉した。私はテレビを点け、ゲームのセッティングをした。四角いブロックを積み上げるゲームを夢中になってしていると電話が鳴った。時計を見るともう7時を周っていた。一時間半はゲームをしていたことになる。電話は母からだった。遅れるから、ご飯を食べていいという内容だった。私が願った通りの展開に心が弾んだ。

私は食事の準備に取り掛かった。お湯を沸かし、冷凍庫からミニハンバーグを二個取りだし、皿に乗せ、ラップをかけた。レンジにかけている間にリビングテーブルに置いたカップのカレーうどんを開け、小袋を切り乾麺に振りかける。レンジがチンと鳴り、キッチンに向かうと、雨戸がバンッという大きな音を立て、そのすぐ後に横殴りの雨がバラバラと戸に当たる音が聞こえた。テレビの音を下げるとビュービューという風音と地面と壁を叩く雨が家を取り巻いている気がした。まるで洗濯機の中にいるみたいだと思った。でも、この台風の夜の中で私は少しも恐怖を感じてはいなかった。大好きなゲームとカレーうどんと二個のハンバーグが心強いお供だった。

朝起きると私は寝室のベッドにいた。私はゲームをしたままソファで寝てしまっていたはずだった。きっと親が運んだんだろう。父と母はすでに起きていて、父は身支度をし、母は台所に立って香ばしい匂いと小気味いい音を出している。窓からは鮮やかな朝の光が部屋に差し込んでとても爽やかな気持ちにさせた。そのせいか、父と母が時折かわす二言三言の会話にいつもの緊張感のようなものが取り払われている気がした。きっと、台風が洗濯機のように私の家の黒い霧のようなものを洗い流したのだろう。その時はそういう風に考えていた。

確かにその日を境に父と母の関係は確実に和らいだ。そして、翌年の初夏に妹が生まれると、世界が変わったかのようになった。父と母は妹を溺愛した。私はそのおこぼれをもらうことができた。世間でよく言われるような嫉妬心は湧かなかった。地獄のような日々に戻ることが無いことを心の底で喜んだし、私も妹を愛した。妹は天使のような子だった。

私が中学生になると、あの日、台風の夜に何が起こったのか大体類推できた。暴風雨が吹き荒ぶあの夜に、父と母はどこかのホテルに行き体を重ね、母は妹を宿した。絶対口にはしないだろうが、きっと母はずっと女の子を望んでいた。だが父はそれに応えられなかった。だがあの夜、奇跡的なことにそれが成功したのである。二人の間に直感的な確信があったに違いない。でなければ、翌朝のあのリビングに満ちた、あの幸福な空気感は説明できない。

私はあの日以来、家庭環境が良くなったからなのだろうか、学校の成績がメキメキと良くなった。九九さえ満足に覚えられずに、陰鬱な気持ちになってた事が嘘のように。高校は学区内一位の高校に進み、国立の大学に受かり、一人暮らしを始める。さて、これから変な話をするが、逃げ出さないで聞いて欲しい。一応実話なのだ。

大学生の私は正月に実家に帰り、小学3年生の妹とリビングのテレビを見ていた。都市伝説を取り上げた特番のバラエティ番組だった。もじゃもじゃ頭をした男がアメリカ人の金髪の女性にインタビューをしていた。9歳の妹は食い入るように見ている。金髪のアメリカ人はある日農道を車で走っていると、まばゆい光に包まれ、気づいたらUFOの中で寝ていたという。それから彼女は体を動かそうにもマヒしたかのようにびくとも動けずにいると、グレイ型という宇宙人が現れそのままレイプされたという。私はその荒唐無稽な内容よりも、隣に座る9歳の妹にレイプという言葉に触れさせたくないという思いでチャンネルを変えようとリモコンに手を伸ばしたが、妹を見ると真剣に見入っているので出来なかった。金髪のアメリカ人はその後宇宙人の子を身ごもったと言った。私は声を出して笑った。私はリモコンを持ち、妹に言った。

「チャンネル変えるよ?」
「ダメ!」

妹は即座に否定し、私はびっくりし困った。私は妹の将来を危ぶみながら、どうしたもんかと考えた。親は福袋の争奪戦に出かけていた。妹は静かに言った。

「わたし宇宙から来たかも…」
「ははは、何言ってんだ」

私は台風の夜に父と母が合体して、生まれたんだよと言いたかったが、言えるわけない。妹はこちらに向きこう言った。

「わたしね、お兄ちゃんを助けるために生まれて来たんだ」

私は無言になった。

「お兄ちゃんが困ってて、助けたくて、それでわたし宇宙からお母さんのお腹に入ったの…」

私は妹に寄り添い、肩を抱き、小声で言った。

「いいかい?そういうこと他の人に言っちゃだめだよ」

妹は悲しい顔をした。私はそれを見て堪らなくなり言った。

「でも、…ありがとう」

三が日が終わり、私は一人暮らしをするワンルームに戻って、勉強をしなければならない。父が駅まで送ると言って私を車に乗せた。私は車中でずっと妹の言ったことをぼんやりと考えていた。冬の空を眺めながら何気なく父にUFOを見たことあるか聞いた。父はこういうふざけた話題には取り合わない人間だった。だが、意外な答えが返ってきた。

「あるよ」

父は真顔で言った。私は平静を装いながら言った。

「母さんは?」
「一緒に見てる」

台風の夜に?と私は聞けなかった。


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