【掌編小説】コンサートはいつも少し遅れて始まる
僕は会場から少し離れた公園で彼女を待っていた。だだっぴろい駐車場が隣接し、ときおり遠くから海の風がそこから強く吹きぬけてゆく。夏は終わりを迎え、陽の傾きとともに秋の予感が埋め立て地の都市の風景に影を落とし始めている。公園には僕のように誰かを待っている人らがちらほらいたが、だんだんと少なくなっていき、今は自分一人だけ。携帯を見ると開演まで5分を切っていた。でも僕は焦ってはいなかった。これから始まるコンサートはいわゆるプログレッシブ・ロックのバンドのワンマンライブで、きまって一発目は冗長で、もったいぶった「序曲」から始まるのを僕は知っていた。それは10分ぐらいの長さの曲で、初見の人間にはなかなかハードルの高い、退屈だと思われても仕方がない調子が延々と続き、ある意味このバンドがブレイクしそうでブレイク出来ない、マイナー性を象徴するような曲だった。まあジャンルそのものがマイナーなんだけど…。
携帯から顔を上げると、ユウミの姿が見えた。彼女は僕に気が付くと小走りで近づいた。彼女はマスクをつけていて、僕はあれっと思った。
「ごめん。遅れちゃった」
「ああ大丈夫だよ。コンサートはいつも少し遅れてはじまるから。」
ユウミにとって学校の行事以外での初めてのコンサートが今回のになる。公演会場は彼女の自宅から近く、見晴らしのいい場所に行けば見える海沿いの高層マンションに住んでいる。中堅アーティストがよくライブをする箱近くに住んでいるのは、バンド好きの僕にはうらやましく感じた。
「風邪でもひいた?気分悪いなら…」
「違うの。ちょっと喉痛めただけだから。遅れたのはこれと関係ないから」
確かにユウミの声はいつもと違く聞こえた。調子も悪そうに見えなかった。大きなマスクは小さい彼女の顔をより一層小さく見えさせた。
「ねえ、早くいかないと。始まっちゃうよ?」
デートにおいて遅れた理由を女性に聞くのはマナー違反だというのは鉄則として有名な話だが、僕もそれを踏襲した。
僕らは指定席に行くと、会場BGMはちょうど止み、暗転した。そして、あのもったいぶった冗長な「序曲」が始まった。バンドメンバーは薄暗い中、演奏をしている。徐々に照明が曲の盛り上がりに合わせて明るくなるが、あくまでこの盛り上がりは「序曲」のなかでの盛り上がりで、冗長でもったいぶったままなのは全体を通して一貫している。僕は明るくなった場内で隣のユウミの顔を見た。その横顔は正面から様々な色の照明を浴び輝かせている。僕は彼女のまつ毛がいつもより長く、カールも強めにかかっている気がした。ビューラーのかけ方を変えたのか、マスカラを変えた効果なのか僕の知識ではわからなかった。ユウミは僕の視線に気づき僕を見て微笑んだ。目だけでもそれは解った。ユウミはきっと僕が退屈してないかと心配して自分を見たのだと解釈して、微笑んで返したに違いない。でも、僕にはそういった不安は一切なかった。もともとユウミが僕の聞いている音楽に興味を持ったのだし、このコンサートも僕が行くと言ったら、自分も行きたいと言い出したことが発端なのだ。僕は少し躊躇したがユウミにこのバンドの尖がった映像のMVを何本か見てもらった。彼女は曲にはハマらないけど、面白いMVだねと感想を述べた。特にバンドメンバーが卵液とパン粉にまみれ、高温の油に飛び込み人間トンカツとなって宇宙人に食べられる荒唐無稽なMVを気に入り、何度も再生して笑っていて、音楽性そのものに関心は寄せてはいなかった。ライブはきっと退屈だよと僕が言っても、ユウミは行きたがった。僕はまあ初めてだし、コンサートそのものの雰囲気だけでも十分楽しめるだろうなと考え彼女の分のチケットを購入したのだった。
バンドは二曲目の「キメラ」の演奏を終え、そのままの流れで彼らの中で最大のヒット曲の「大審院」のリフが始まった。会場もにわかに熱を帯び、ステージ全体が明るく照らし出される。そんな中、ユウミは僕に体を寄せてトイレに行くと言い消えていった。僕は少し失望を感じながらも、すぐに仕方がないと割り切った。そもそもこのヒット曲自体コアのファンからすればそこまで評価は高くなく、聴きやすい曲の部類に入るが、もっとキャッチーでいい曲は後半に控えていた。人間トンカツの曲もそこに含まれていた。
「大審院」の終わりごろにユウミは戻ってきた。ユウミが僕の左隣にいるのだが、僕の左半身はユウミがいる空間に違和感を感じた。そして、僕自身なんでか知らないが心の中でとある疑問が自然と湧き出てくるのだった。
(なんでユウミがここにいるの?)
僕はこの疑問自体に疑問を抱き、混乱した。そう、ユウミが左隣にいるのだ。今その存在をありありと感じられる。この圧倒的な存在の感覚は、とてもなじみ深く、親密で、質量をもった肉体の感覚があり、僕と4回交わった女、ユウミの存在がそこに確実にあった。僕はこの時初めて、存在感というものを本当の意味で理解したような気がした。逆を言えば、さっきまでユウミは隣にはいなかった。僕はこの恐ろしい考えに背筋が凍り付いた。バンドの演奏は4曲目の「さらば愛しき人よ」のサビに入っていた。ヴォーカルは高らかに歌い、ギターは陰鬱なアルペジオを繰り返す。
そうなんだ。今いるユウミこそ本当のユウミなんだ。トイレに行ったユウミは偽物で、どこかに消えていった。…。そんなわけないだろ!と僕は自分につっこみ、心の中で笑った。その笑いは体内で虚しくこだました。ユウミを見ると微かに体を揺らし、音楽を楽しんでいるようだった。彼女は僕の耳に顔を近づけ結構いいじゃんと言った。ウレタン生地のマスクを通して聴こえた彼女の声は紛れもなくユウミの声だった。僕は彼女の腕に自分の腕を絡ませて手を握った。ユウミの手の熱と湿り気を感じ、そしてユウミを通して僕自身の熱を感じて僕は正気に戻ったことを確信した。
コンサートが終わり会場を出ると、秋を感じさせる爽快な風が吹き、人々の熱気を優しく冷ました。
「えー意外と楽しかったんだけど!」
「そ、そう。よかった」
ユウミは思った以上に楽しんでくれたようで、僕は驚いた。言葉だけじゃなく、目は輝いていて、満足している様子が見て取れた。
「どうする?これから飯でも食う?」
「うん。そうしよ。ねえ、あの坊主の人ってベースっていう楽器だよね?」
「ああそうだよ。めっちゃすごかったでしょ?」
「すんごい高速で指が動いててビビった」
「このジャンルの楽器隊はだいたいみんな上手いけど、あの人はその中でも別格で超有名な人」
「へーそうなんだ。すごい人なんだね」
坊主のベースの彼はこのバンドじゃもったいないくらい上手くて、不憫に感じるくらいだった。そんな彼を初めて見て評価した彼女を僕は誇りに思い、巡り合えた幸運に感謝した。
「あっそうだ、謝りたいんだけど」
「えっ何を?」
「ごめんね遅れちゃって」
「えっ?まだ気にしてるの?それに全然間に合ったし、大丈夫だよ」
ユウミは困った顔をした。僕が言っていることに判然としないような…。
「え、でも」
僕は彼女がそれ以上言うのを遮った。
「いい?その話はもうなしだから。…何食べたい?」
「う、うん…」
少し俯いたユウミのまつ毛はいつもの長さに見えた。カールも深くもなく浅くもない、いつものユウミの見慣れたまつ毛だった。僕は怒りを感じた。僕の体の奥深くにある何か根源的な所から湧き上がった怒り、深い怒りが僕を鼓舞するように顔を出した。
そして、僕は食事が終わったら、ユウミとめちゃくちゃ激しいセックスをしようと心に誓った。どうしても激しいセックスが必要に感じた。そうすることで彼女の中に僕自身の存在を、僕自身の中に彼女の存在を刻み付けられると信じているかのようだった。