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身体が教えてくれること。創作プロセスを見直してみたはなし

皆様こんにちは。今井夢子です。
帰国まであと2か月ちょい。ここへきて、色々な学びが繋がり始めた感があり、それと共にもちろん新たな興味や課題が湧いてきて、大変バタバタしております。

そんな折に!私は気づいてしまった!

自分が厄年だということに!

衝撃です。(36歳ぐらいで来ると思ってた)
なんなら去年が前役だったということにも大変驚いています。
スペインのカンパニーで作品に出演することができ、各地に仲間もでき、怪我もなく様々な経験を出来た、めちゃくちゃ良い年だったな!よし!まる!
と思っていたのに、前厄だったなんて・・・いったいどのあたりが厄だったのか、ひとつも思い当たらない・・・。

今年は日本に帰国することもあり、既に色々張り切りすぎている節があるように思うので、身体も心もニュートラルに、一日一日を歩んでいけるように心がけよう。
と、厄年発覚から戒めを得つつ、でもやっぱり身体を壊すのが怖いわね!と、ジムに通い始めたりもしている今日この頃です。

さて、最近は「どうやって思考的な創作のプロセスを抜け出すか」ということについて考えております。


作品を創るためには、それぞれにプロセスがあります。


例えば私が一曲の振付ナンバーを創る場合は、だいたいこんな感じ。
・まずナンバー全体を物語ととらえて構成を考える。
・その構成を成り立たせるために必要な要素を考える。
・その要素を表出させるために必要な振付を考える。
・ここまできてやっと、思考から実際の身体を使っての作業へと移っていく。

これが私にとって最も「まとまりやすい」「やりやすい」創り方だったのだと思うのです。

けれど、例えばそれぞれのキャラクターがそれぞれの身体で、てんでバラバラに動いてほしいんだよね!というような時はちょっと困る。
自分の思考だけで10人のキャラクターの動きと関係性と行動する理屈と・・・と全部考えてそれをひとりひとりに伝えるのは、大変だし効率が悪すぎる。
しかし俳優及びダンサーからしてみれば、「何を動けばいいの?」というところ。
全く賛同しないが、「言われたことだけをやりますので」と言う人もいた。


豊かなシーンが生まれにくい・・・!


さて、これは、私の全体的な作り方のプロセスが、思考的であったからなのではないかと思いはじめた。
思考が伴わなければ、あるいは理解が出来なければ、行動できない状態を作ってしまっていた。
しかし、それだと思考できたもの、イメージできたものしか表出できないことになってしまう。
思考のラインに沿っていないアイデアは、排除されることになってしまう。


豊かなシーンが生まれにくいいいいい・・・!(二回目


では、思考的な創作のプロセスから抜け出すための、キーはなんだろう?


そこで、身体です。


私がカンパニーメンバーとして活動していたSENNSAでメインメソッドとしていたグロトフスキー、現在勉強しているルコックでも、言われ続けていること。

思考を切り離せ。
身体を動かせ。

これです。
・・・言葉にするとなんて乱暴でスポ根で雑な印象なんでしょう。でもほんと、ヨーロッパに出てきてからのビッグテーマはこれ。


例えばSENNSAでは、とにかくトレーニングがキツイ。肉体的にどんどん追い込んでいき、思考が追いつかない状態を強制的に作る。
その上で、身体の本来のエネルギッシュさを取り戻したり、身体から生まれる反応を表出させたり、日常の思考回路では浮かばないような選択肢に飛び込むことができたりする。

例えばルコックでは、空気になれだの、鉄の板になれだの、挙句には紫色になれだの詩になれだの、もうマジで本当に意味がわからないエクササイズが毎日押し寄せてくる。
オーダーをもらった瞬間は(言葉の問題ではなく純粋に)マジで意味がわからないのだが、考えても紫色にはなれないのでとにかく色々やってみる。
その中で、「自分ではない物質の状態」にコミットするエネルギーと瞬発力を体得したり、「状態の変化」を身体を通して落とし込んだりしている。


どちらの場でも、ちょっと考え始めるとすぐにバレる。そしてすぐさま言われる。「考えるな、やれ」と。


身体が教えてくれる情報は、大きい。
自分が想定しているよりもずっとずっと、大きい。
自分が想定しているよりもずっとずっと、豊かなイメージや自由な動きを、身体は既に持っている。
それを試す前に、アウトラインや結果を考えてしまうと、自分で天井を作ることになり、その先にあるかもしれない新しい発見や気づきに至りにくい。
「こんなことは要らないんじゃないか」「これは間違っているんじゃないか」というような、日常的な思考による判断で、身体から生まれようとしている新鮮な動きや状態をコントロールしようとするのもまた、新しい可能性を閉じてしまう。

頭蓋骨をパカっと開けて、日常的な思考、あるいは安全圏にいるための思考を取り出し、ぽいっと遠くに投げてしまう。

そして目の前のことに飛び込む!!!!

そんな心持で日々の作業に臨んでみる必要があるのです・・・。


さてしかし、本当に思考を全く身体から切り離してしまっていいのか?と言えば、これもまたNOである。
自由気ままに、好き勝手に動いてみれば、面白いことが生まれるのか、NOである。

自分の癖を認識したり、その上で選択をするための、冷静な視線は必要。これを持った上で、身体にもっと没入したいのです。

与えられた課題をやりながら、身体に没入し、身体に起きる反応を受け入れた上で、次に行うことを選択する。

SENNSAもルコックもコンテンポラリーダンスのラボも、ずっとこのことを練習してきているのだな、と気づく。
身体表現の土台のような部分。


そしてお恥ずかしながら私にとっては、ヨーロッパに出てくるまで見つけられなかったことなのであります!もうっ!


私はそもそも思考によって自分自身をコントロールしすぎる節があるのだが、ヨーロッパに出てきてからは言葉のハンデによって、「やってみないとわからない」という状況に強制的になり、とにかく飛び込む力は鍛えられた感がある。

まだっまだ練習が必要だけれど、なんとなく、没入する喜びのようなものが感じられるようになってきた。
身体に没入して、しっかり自分の身体との関係性が機能しているときは、何か余計なことを思考している隙間がない。
そうして自分自身もびっくりしてしまうような、思ってもみなかった行動が生まれたりして嬉しい。嬉しいのでもっともっと、となる。

なにより余計な思考が挟まらない状態での稽古の方が、どんなに肉体的にキツくても、

楽である。


たらら~♪
結局のところ、楽な状態で健全に行われる作業に勝るものはない!

もっと自由でいいんだよ、好きにしていいんだよ、ジャッジしなくてもいいんだよ、試してごらんなさいよ、面白いものがあふれてますよー!
と、身体に教えてもらっているようです。

さて、ちょっと言葉を変えてみると、それは「今ここ」に没入するということ。


今、今、今、今の連続の中で、身体が感じているものを受け入れること。そしてイエスアンドを繰り返すこと。


これは日常においても、大切なことだと思います。

ふと気づけば、明日のプレゼンのことを一日中心配していた。そこに「今」はない。
ふと気づけば、昨日の彼の言葉に対して一日中怒っていた。そこに「今」はない。

でもやっちゃうよね、こういうの。もう変えられない過去のことや、まだ起きてもいない未来のことで、今の自分がいっぱいになってしまうの。
疲れる。そして目の前で起きている豊かなものを、逃し続ける。

たらら~♪ともっと、楽な状態を選択したいものです。


豊かなものを作りたい。
あるいは、豊かに日々を生きていきたい。
そう思った時に、キーになるのは、

思考によってコントロールされるのではなく、身体と自分自身が繋がった状態で、
今、目の前にあるものを、その瞬間瞬間で真にキャッチできるかどうか、ということなのではないかと思うのです。


真に。

こんなことたちを踏まえて、帰国後はどんな風に創作にアプローチしていこうか、共通言語を生み出していこうか、今からわくわくです。
私もまだまだ学びの途中なので、シェアをしながら深めていけたらいいなと考えています。


そのためにも、目の前の「今」をひとつずつ。

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