ロシア絵本と光吉夏弥、原弘
先日、白百合女子大学で行われた沼部信一さんの講演会に出かけた。「光吉文庫のロシア絵本について」の講演は、午後1時から5時過ぎまでという長時間にもかかわらず、時間を忘れるほど刺激的だった。
ロシア絵本については、これまで『ソビエトの絵本』『子どもの本1920年代』『幻のロシア絵本1920-30年代』などで紹介されてきた。光吉文庫として白百合女子大学が所蔵するロシア絵本に関連した講演会だった。
光吉夏弥とロシア絵本との関係、出版された同時期に日本に移入された絵本は誰の手に渡り保存されてきたのか、関心が向けられた背景には何があったのか、スライド資料に基づいた詳細な話に興味は尽きなかった。
名前の挙がった吉原治良、原弘、松山文雄、柳瀬正夢、ロシア絵本とナウカ書店との繋がりなど、光吉文庫と重なる絵本の数も根拠と合わせて示された。ナウカ社は、1932年に大竹博吉が設立しソヴィエトの書籍を専門に扱っていた。海外から持ち込まれるロシア絵本もあったが、ナウカ社がなければ収集も保存も限られていただろう。
私は、澤田精一さんの著書『光吉夏弥 戦後絵本の源流』、それと柳瀬正夢、原弘の活動と重ねながら話を聞いていた。柳瀬正夢がナウカ社の装幀、挿絵の仕事をしていたことや、1937年から夏川八朗の名で『コドモノクニ』『子供之友』の挿絵を手がけたことは知られている。しかし、原弘がロシア絵本とその後のアメリカやイタリアのデザイナーの絵本を紹介していたことは意外と知られていない。
原弘は1966年に『グラフィックデザイン』No.23で「ソヴィエト絵本のある時代」を紹介している。今回の講演の資料としても配布された。時代は前後するが、1959年には『グラフィックデザイン』創刊号で「デザイナーの絵本」として、第2次世界大戦後のイタリアとアメリカの絵本を紹介する記事を掲載している。1920−30年代前半のロシア絵本が重要な位置を占め、その後のアメリカやイタリアなどヨーロッパの現代絵本の発展に繋がっていったことを早くから述べていた。
光吉夏弥は絵本、写真、バレーなど異なる分野を横断して活躍していたが、原をはじめ、名前の挙がった同世代の人たちに共通していたのは、ヨーロッパの新しい表現思潮、とりわけ革命後のソヴィエトの出版物に関心を持っていたことだろう。表現基盤を共有していたことや特異な表現性もあり、おのずと分野が限定されることなく写真や演劇、映画などに広がっていった。
原は、東京府立工芸学校の学生のころから『キネマ旬報』の熱心な読者で、「エイゼンシュテインやブドフキンの映画モンタージュ論から、どれだけ多くのレイアウト理論を学んだことか」と振り返っている。
ロシア・バレーに興味を持ったのは、丸善で購入したレオン・バクストのロシア・バレーのための舞台やコスチュームのデザイン集を見てからだという。光吉がロシア・バレーに魅せられたように、原にとってもロシア・バレーの公演は衝撃的だったようだ。
新劇の常設劇場だった築地小劇場には、1929年に分裂するまで1回も欠かさず定期公演に通ったというし、日本交響楽団の定期演奏会にも通っている。当時は分野を問わず興味をもって活動の場を広げるのは珍しいことではなかった。
原は、ロシア革命後のエル・リシツキーやアレクサンドル・ロドチェンコ、ウラジミール・タトリンに強い関心を持っていた。印刷雑誌で紹介されていた、リシツキーの『マヤコフスキー詩集』は、黒と赤の2色刷りの作品で強い衝撃を受けたという。
早くからバウハウスに関心を寄せ、ドイツ書を求めて駿河台下のカイゼルという輸入書店にも頻繁に足を運んでいたようだ。1869(明治2)年創業の日本橋丸善は、輸入書を扱い当時は海外の情報を得るための重要な役割を果たしていたが、ロシア革命後の芸術に強い関心を持っていた人たちが通っていたのが、ナウカ書店だった。
原は、ナウカ書店でソヴィエトのグラフ誌『USSR in Construction』など写真やデザインに関する書物を入手している。39冊のロシア絵本もその中に含まれていた。
私は、武蔵野美術大学に在学中1年間だけ原教授に教わった。バウハウス叢書やヤン・チヒョルトの文献を読むために独学でドイツ語を勉強した話しや、タイポグラフィに関する膨大なスライドに引きつけられたことが印象深く残っている。24歳の時にはヤン・チヒョルトの論文『Die neue Typografie』を翻訳し自費出版している。
原が遺した大半の資料約30,000点は静岡県三島にある特種製紙に収蔵されているが、幸い私は資料が移管された翌年に見ることができた。ヤン・チヒョルトの翻訳原稿を見たときの驚きと感動は今も脳裏に焼き付いている。それ以外にもさまざまな文献の翻訳メモやノートが残されていた。それまで目にすることがなかった自作の版画や絵画などもあり、関心を向ける分野の広さと勉学意欲の旺盛さに驚愕するばかりだった。
関東大震災後、若い芸術家たちに新しい芸術運動が急激に広がっていった。原にとって村山知義との出会いなど震災後の10数年は、その後に繋がっていくきわめて重要な時代だったという。
原は、光吉が国際観光局発刊の『Travel in Japan』の主幹になったときに出会っている。澤田によれば、1935年に英文で刊行された表紙のデザインは原だといわれている。原と光吉は折りに触れ接点があり、仕事を共にしている。光吉のロシア絵本収集は原の影響ともいわれているが、10年ほどの期間に出版された多種多様なロシア絵本が、造形面はいうまでもなく、メディアとしても強烈な印象を持って受けとめられていたことは確かだろう。
1920-30年代前半のロシア絵本は、特殊な環境の中だからあのような表現が可能だったのだろう。新しい社会を作っていくためには、未来を担う子どもと教育がいかに重要かという前提があった。情報や知識をいかに多くの子どもたちに伝えるか、目的が明確だったし、しかもそれは国策でもあった。
保育園・幼稚園を都市部から農村部にまで設置を広げていくことや高等教育を充実させること、社会 インフラを整備充実させることが連動していたのである。
識字率が低かった当時のソヴィエトでは、子どもだけでなく大人に対しても視覚的な表現で語りかけることの重要性が認識されていた。世代を超えて、絵本やポスターを情報伝達のための重要なメディアとして位置づけていたことがわかる。そのために絵本やポスターのメディアとしての特性を見極めることが必要だった。
20世紀初頭に広がったヨーロッパの新たな芸術思潮とも重なり、ソヴィエトに独特の表現形態をつくり出す機運が醸成されていった。グラフィック・デザイン、写真、タイポグラフィ、舞台美術、映画、建築などが、共通の土壌の上に育っていった。ポスターや雑誌で用いられたデザイン手法が絵本にも反映していったのは自然な流れだった。
その後スターリン政権になると、社会主義リアリズムの推奨によって、抽象化された実験的な表現は輝きを失い、批判の対象にさえなっていった。活動の基盤を失った作家たちは、フランスなどヨーロッパに制作の場を移していったが、さらに第一次世界大戦を契機にアメリカに移住した作家も多い。
ドイツ、バウハウスの閉鎖に伴ってアメリカに移住した関係者とともに、第2次世界大戦後、アメリカ絵本の黄金時代を形成していく一翼を担ったことも時代の流れだったのだろう。
印刷技術の特性を駆使したロシア絵本の視覚表現には、グラフィックがヴィジュアル・コミュニケーションへと発展していく萌芽を見い出すことができる。視覚による伝達性が意識され、それを踏まえた形体と構成が考えられた。この時期のロシア絵本を見ていくとき、このような観点も必要だろう。
このような考え方はよりアメリカに引き継がれ、グラフ雑誌やポスター、絵本として発展していった。
1920-30年代、日本でも前衛的な表現を受容する同時代的な動きがあったにもかかわらず、ロシア絵本がもたらした考え方や手法に基づく絵本は、その後目立った形では育っていかなかった。
1960年に日本で初めての世界デザイン会議が東京で開催された。このときデザインの社会的機能や役割が問われ、日本でも大きな転機になった。グラフィック・デザインの分野でも、ヴィジュアル・コミュニケーション・デザインの可能性が熱く語られるようになった。会議に合わせてブルーノ・ムナーリ、ソール・バスらが来日している。バスの講演「視覚文化に果たすデザイナーの責任」、ムナーリの社会や子どもに向けた実践的な活動が話題になった。
原が海外の絵本やロシア絵本を紹介したのもこのころからだが、絵本の分野からも、デザインの分野からも、絵本のデザイン性についてその後積極的に語られることはあまりなかったように思う。
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