時代認識
学術研究者にとって、極めて重要なことがある。それは何かというと、時代に対する正しい認識である。どの分野に対しても当てはまるが、とりわけ自然科学系の学術にとって重要である。膨大な数値計算を必要とするような研究を、100年前に提案してもナンセンスである。実行手段が伴わなければ、ほとんど意味がない。一方、今日、いたずらに思索的な研究をしても認められないであろう。より実証的であることが要求されよう。
近代以前の学術研究は、一人の仕事であったであろう。ダビンチ、ガリレオ、オイラ-、すべて一人でこつこつ研究していたものと思われる。それが近代になって、研究の規模が大きくなるにつれて分業で行われるようになってきた。そしてこの傾向は、年とともに加速されてきた。
ところがこの流れに、最近、変化が出てきたのである。個人や少人数のグル-プでも、かなりのことができるようになってきたのである。個人の知的能力が革命的に増大し始めたために、学術研究のある部分は、一人でもできる時代になってきたのである。緊密なチ-ムワ-クが必ずしも必要でなくなってきたのである。その最大の原因は、計算機の革命的進歩(IT技術)である。
計算機の進歩によって、一昔前なら大型計算機で行っていたような計算が、パソコンでできるようになっている。これは、パソコンが一昔前の大型計算機に匹敵する演算能力とメモリ-容量を持つようになったためである。さらに、以前ならば、計算機の出力を図表化するのが大変であったが、作図ソフトの進歩によって、簡単な仕事になっている。さらに、膨大な文書の管理も個人レベルで可能となりつつある。関係者間の連絡も、国境を越えて短時間で高密度の通信が可能となっている。
キ-ポイントは、あらゆるデ-タ、情報を電子化することである。電子化して始めて、上に述べたような恩恵に浴することができる。電子化してすべての情報がパソコンの中に収まっていると、徹底した情報の管理が可能になる。論文や報告書を書く場合には、いろいろなデ-タを参照する必要があるが、電子化が進んでいると、欲しいデ-タを簡単に集めることができる。紙と鉛筆を使っていては不可能である。あちこちに散在しているデ-タを探してきて、必要な形に変換するだけで疲れきってしまう。電子化されていれば、探す時間はほとんど掛からないし、デ-タの変換を簡単にできる。でき上がった原稿をパソコン通信で送って、関係者の意見を求めることも簡単にできる。
大学を出てから、数十年するといろんな経験をする。還暦を迎える頃には、ありとあらゆる経験をするといってもよい。そればかりでなく、同じ問題を2度も3度も取り扱うことが多い。成功や失敗を繰り返していると、何が大切で何があまり大切でないかが分かってきて、それを短時間のうちに見抜く眼力も備わってくるであろう。
こうなってくると、いろんな一見雑多な知識が頭の中で融合し始める。独自のものの見方や洞察力が生まれてくる。記憶力そのものは、加齢によってかなり低下するが、知的活動そのものは、かえって盛んになり得る。ただし、このような状況が生まれてきて、有利に作用し始めるためには、現役のプレイヤ-に留まっていることが肝要と思われる。現役を引退した人にはまた別の世界が開けるのかも知れないが、迫力がない。せっかく生まれた新しい能力を十分に展開できない。やがてしぼんでしまうであろう。現役に留まっていると、一つのアイデアが別のアイデアを生むような一種の連鎖反応が始まって、思いがけない展開が期待できる。
しかし、落とし穴もある。日本の社会では、若者が面と向かって年長者の意見に反対することは少ないので、一見老人が優遇されているように見える。しかし、これは表面的なことであって、大学の名誉教授が研究室を日常的に訪れることはほとんどない。敬して遠ざけられてしまうのである。何故であろうか?
一般的に言って、年を取るにつれて、我々は人の意見を聞かなくなる。新しいものを受け付けなくなる。適度な頑固は愛嬌であるが、度を過ぎると実に不愉快である。しかも困ったことに、本人にその自覚がない。口から出るのは、若い者に対する不満と非難である。こうなると誰も寄り付かなくなってしまう。
このような落とし穴にはまらないようにするには、どうすればよいであろうか?人は何故年を取ると、頑固になってしまうのであろうか?頑固は老人の自己防衛ではないであろうか?時代はめまぐるしく動くため、不断の努力をしない限り、我々は時代から脱落してしまう。時代から脱落してしまったことを認めたくないから、頑固になって時代を否定するのではなかろうか?
これを避けるためには、「年を取るにつれて、我々は人の意見を聞かなくなる。新しいものを受け付けなくなる」ということを、十分に自覚することである。自覚したからといって十分ではない。自分なりのチェックポイントを作って、不断のチェックを怠らないことが大切であろう。また、過度の肉体的、精神的疲労を避けて、常に余裕を持って望むことが必要であろう。
伊能忠敬は56歳から大日本地図の作成に着手したということである。実に驚嘆すべきことであり、伊能の個人的資質による所が大きいであろうが、年を取ってからでも、大きな知的作業を行い得るということを実証している。伊能の時代と我々の時代は大いに異なる。はるかに長生きになっている訳であるから、伊能の時代の56歳は、我々の時代では66歳以上と考えるべきであろう。もっと上かも知れない。
日本全国をこつこつ回って歩く。いつ完成するとも分からない。気の遠くなるような話である。伊能の偉業を可能にしたものは何であろうか?いろいろあろうが、ただ一つ挙げるとすれば、時代の要請に裏打ちされた明確な目標であろう。時代の要請と関係がなければ、どこかで挫折していたのではないか?
時代とマッチングしていなければ、単なるドンキホ-テになってしまうであろう。精確な時代認識を背景にして、明確な目標を立てて、思い切って行動し、最後までやり抜く。伊能の偉業から、こんなメッセ-ジを読み取ることができないだろうか?このような行動に対して、年齢はあまり問題でないのかも知れない。年を取ることには、プラスとマイナスがあるのであるから、そこの所をよく心得て、効率よくエネルギ-を使うことは可能であろう。
(2000.11.29)