映画「空白」 あまたの演出家から愛される演劇界のエース
古田新太は劇団新感線のトップであり、あまたの演出家から愛される演劇界のエースだ。
劇団の代表作「髑髏城の七人」では主役の捨之介を演じ、華麗な剣さばきを披露する。
軽妙洒脱な捨之介が、唯一気持ちを見せるシーンがある。
その場に駆けつけることが遅れて盟友を救えなかったところでつぶやく。
「俺はいつも遅すぎる」
冒頭。
海と光と聖なるような音楽が、
これからの不幸を知らない人物たちを包み込む。
彼らにこの光はあまりに眩しすぎる。
娘役の伊東蒼は「薄い」存在感の何たることか。
彼女はほとんど言葉を発せず、自己主張せずでマイナス存在感を放つ。
だからこそ衝撃的な死の痛ましさと世界の残酷さが引き立つ。
不幸な事件で娘を亡くした添田(古田新太)。
それに関わったスーパー店長の青柳(松坂桃李)。
本来これほどの境遇の人物は同情に値するが、それぞれ負の側面を抱えている。
ゆえに観客が感情移入できないよう意図的に設定されている。
さらに世間、学校、マスコミの卑しい姿が強調される。
人と社会の暗渠。
それを示すために、世界というキャンバスを黒い絵具で丁寧に塗った映画である。
監督は手綱を緩めず、共感を許さず、救済を与えない。
私たちは一体どこまで連れていかれるんだ。
こちらまで黒く染まってしまいそうだ。
そんなふうにぐーーーーーっと耐える時間が続く。
𠮷田監督は、この作品を完全に支配していた。
監督が見せたい世界のあり様を最適なカットで観客に提示する。
これほどブレなく観客に醜悪な世界像をリーチできる監督の技術に驚嘆する。
黒い絵具は幾重にも重ね塗りされ、まるで漆喰のように分厚くなった。
その時だ。
添田の娘をはねたドライバーの母親(片岡礼子)が、
黒い漆喰と頑迷な添田の心を穿つような行動をとる。
母親の言動を理解できるかと言われたら、それは正直わからない。
最愛の娘を亡くして、他者を恨まず自分を責め不在の娘だけを抱きしめ続ける。
人間にそんなことができるのだろうか。
わからないが、片岡礼子の心の深いところから汲んできたような演技を前にすると、
もしかするとそういうこともあり得るのかもしれないとしか言えなくなる。
そして、そんな片岡礼子に対峙するときの添田である古田新太が何も言わないのがいい。
片岡礼子の「乾坤一擲」を起点にようやく鈍い地殻変動が起きる。
添田は美術部だった娘の絵筆を取り、初めて娘に近づきたいと願う。
添田が前妻に頭を下げたり、部下(藤原季節)を前にして照れたりする。
「みんなどうやって折り合いをつけてるのかな」とつぶやく。
仏壇に添田が供えた小さな箱。
そして、店長にも焼き鳥弁当の神様が訪れる。
ずっと人物に辛辣だったこの映画の変化を、観客の私たちは祈る気持ちで見守る。
映画の神様は彼らを救ってくれるのだろうか。
ラスト。
古田新太が刀を抜いて、暗幕をバサッと切り落としたかのように錯覚した。
やはりここでも言葉はいらない。
ただ古田新太演じる添田がダッと小さく動いて、自身のヘタな絵を凝視しただけだ。
その動きで、スクリーンに閃光が走った。
当代随一千両役者の面目躍如。
吉田監督が一貫して黒く塗ってきた世界。
そこにあえて塗り残された箇所。
そのキャンバス地の白さは眩しい光にさえ見えた。
遅すぎた添田が父になった瞬間。
それを希望と呼んでいいのだろうか。
希望と呼ぶには、その光は一瞬だった。
しかしそのはかない閃光を見るために、私たちは映画館の暗闇に身を沈めるのだ。
#空白 (2021) 映画
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