自由トイウ言ノ葉ノ自由連想的ナ何カ
colour of noters
https://note.mu/caleidoscopio/n/ned1be9d1004a
企画参加。自由というテーマだが自由すぎてどうしていいのか分からない。なので自由連想という詞を用いたが、心理療法の自由連想とは全く関係ない。ただ思いついたまま書いていく、というだけの意味で。
自由とその反対にあるもの
自ずからに由る
自らを由(よし)とする。
いい言葉だ。漢字の情報量には恐れ入る。
さてそれなら自由の反対はなんだろう。不自由?拘束?支配?制限?帰属?自由と似たものはなんだろう。無制限?放埓?独特?気まぐれ?それら全て孤独を孕んでいることには違いない。
創作にとっての自由
先日ブログでこんなことを書いた。
それぞれに合わせて描いてみる
あるもので何とかしてみる
「制限」をかけることは時に創作にとって有効だ
自分自身を完璧にコントロール出来るのは理想だ。だが自身を高めるのに有効なのは、自身が既に持っている(慣れている)作業50パーセントに、逆に初めて挑戦する作業50パーセントの割合だと聞いた。なるほど、ツールの制限が思考の表に浮かび上がってこない無意識を引き出すのはそのせいか。制御不可能な海に泳ぎ、見知らぬ(少なくともまだ自分が認知していない)世界に出会う。何度も何度も。
自由である視座
以前、子供がお世話になった言語聴覚士のT先生と、障碍者…というか人間の自立について話をした際、仰られた言葉が忘れられないので記しておく。
身辺的自立(経済的自立含む)もさることながら、個人個人の心の拠りどころや嗜好と、社会の一員として生きることを両立させて初めて、その人が「人間」として自立した、と言えるのではないだろうか
ここでいう社会の一員として、というのは「他者」と関わりあうことだ。アドラー言うところの他者貢献。生きること、それじたいがその人間の表現だとすれば「表現の自由」とは放恣に思考や欲望を撒き散らすものでは無い。
他者の内に自分を見つけ、自分の内なる他者を見つめること、それなしに自由は在り得ない。ただ一人この世界で生きて死ぬことが出来ない限り。
自由である瞬間に
もし余命いくばくもないとか、明日世界が滅亡する、と言われてもたぶん自分はいつも通り、生活の切り盛りから捻出した時間でこうやってそのとき描きたいものを描いて、それがどんなに中途半端であろうが描きたいように描いて、眠くなったあるいは眼か手が疲れてもうしょうがないからちょっと横になって寝てる間に出来たら死にたいが、そう簡単にいくはずもなく。ああその前に恥ずかしい××フォルダとか●●フォルダだけは削除しておかねばなるまい。とか言ってる今のうちに捨てとけばいいものを。自由になれない自由。それでいい。
『leb die sekunde』はTOKIO HOTELの初期の曲名から。
いまだ厨二病を治さない自由。治らないが正解。
平成27年7月10日(金)青梅雨明けきらぬ文月納豆の日 今井浄御