見出し画像

私が遅咲きのフレッシュ先生になった訳③

長らくお待たせしました。更新がストップしている間も「好き💗」や「フォロー」をしていただきありがとうございます。とても励みになります。
2023年。開けましたね。みなさん、どのような1年にしたいですか。私は、これからは、脳内ノイズを消して、自分の魂の声に従って生きると決めました。2023年が皆さんにとって素晴らしい年になるよう、心よりお祈り申し上げます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。


さて、脳内ノイズや周囲のノイズに振り回されていた22歳の頃に話を戻そう。自分の心の声とワクワクに従って就活をした結果、念願のマスコミ関係1社から内定をもらった。第1希望のところだったので嬉しかった。他の就活生用パンフレットとは違い、「プロフェッショナル」や「情熱大陸」のような、そこで働く人々のドキュメンタリーを冊子にして送ってきてくれた会社。「ここなら楽しく働けそう!」という会社から、狭き門をくぐり、内定をいただいていたが、この、またとないチャンスを、周りのノイズに惑わされて結局内定取り消しになってしまった。後々まで後悔することになる出来事だった。

当時、私は最初の夫となる男性とお付き合いをしていた。その男性を仮にMとする。
Mは束縛系のわがままなタイプ。口八丁手八丁で相手を自分の意のままにすることに長けていた。話は面白く、知識豊富で一緒にいて飽きる事がなかった。また、相手の自己肯定感を下げる事にも優れた能力を発揮しており、「私のように何の魅力もない女はこの人くらいしか相手にしてくれる人はいないんだ」と思わされていた。
典型的なDVパターンにはまっていた。

付き合い始めたのは大学受験のために地元の塾に通っていた時。
私はよく塾で残って勉強していた。Mは大学生のアルバイトで数学の講師をしていた。
私は、理数系が不得意で悩んでいた。高校2年の時から付き合っていた、人生初の彼氏にも振られ、落ち込んでもいた。その心の隙間に入り込むように、告白され、付き合うことになった。当時17歳の高校生だった私にとって5歳年上の大学生のMはとても大人に見えた。
それまでどちらかというと母の言う通り真面目に生きてきた、いわゆる「箱入り娘」だった私にとってちょっと危険なMの手に落ちるのはたやすいことだった。
今思うと、愛情過多で、娘を守りたいあまり、なんでも聞きたがり知りたがり、コントロールしようとする母の束縛から逃れたい気持ちもあったのかもしれない。
成育歴のせいか、私の自己肯定感は非常に低かった上、性格的に人を疑うことを知らない素直な性格だったことが災いした。

「地元の国立大以外は許さない。もし不合格だったときは公務員になれ」と、母から脅され、滑り止めにむりやり公務員試験を受けさせられていたため、頭がおかしくなるくらい勉強したおかげで、無事に地元の国立大学に合格したが、その時点で燃え尽きて勉強をする気力を失った。
大学に入ってみると、先輩たちは「いかに簡単に単位をとるか」とか「この先生の講義は楽勝だから受けたほうがいい」とか、「大学って適当に遊んで単位をとって卒業するところなの?」と感じた。
真面目にやるのがバカバカしくなって、バイトと部活に明け暮れた。

その間4年間、Mの支配は続いた。私は幼稚園から中学校までピアノを習っており、合唱団に入ろうと思ったこともあるくらい音楽が好きだった。高校の時はビートルズにドはまりした。YMOに影響を受けてシンセサイザーで作曲している友達に誘われて、作詞やコーラスもしていた。音作りの楽しさに目覚め、大学に入ったら「フォークロック部」に入ってバンド活動をしようと思っていた。
しかし、同じ大学の先輩だったMは「あの部活はろくな部活じゃないからやめとけ。それよりフォークダンス部に入った方が楽しいよ」と、そそのかしてきた。
素直だった私はその言葉に影響を受け、結局、興味もないのにフォークダンス部を見学に行き、フォークロック部はたまたま活動していない日だったのか見学に行けず、そのまま勧誘に負けてフォークダンス部に入ってしまった。

楽しく踊っているだけかと思ったら、実は体育会系で、トレーニングが半端なく厳しく、毎日毎日練習に明け暮れ、学校が終わったら、焼き肉屋、居酒屋、お好み焼き屋、家庭教師などのアルバイトをした。
寝坊して授業を遅刻することはしょっちゅうで、そのため試験の時は友達にノートを写させてもらい、付け焼刃で勉強して何とか単位をとる生活だった。

バイト代はMとのデートに消えた。当時、四国に就職していたMは、自分の都合に合わせて私の部活の合宿やバイトを休むように言ってきた。
そのころになるとMに従うのが当然という自動思考になっていたため、部活やバイトの人からはひんしゅくを買うようになり、人間関係もうまくいかなかった。そのため孤立し、ますますMに従うようになっていった。

どこかで「このままではいけない。自立したい。」と思っており、一度実家を出てアパート暮らしをしようとしたことがある。実家から大学まではJRと自転車で片道1時間半くらいかかっていた。周りの下宿している自由な大学生が羨ましかった。
しかし、それも母に反対された。母は私を信用していなかった。私が一人暮らしをすると堕落すると信じていた。
それでも一度、自分のアルバイト代で何とか暮らせそうなボロアパートを契約してきたことがある。その時母は、親戚まで連れ出してきて反対し、結局、契約破棄となった。そんなこんなで自立するチャンスを失った。

そんな中でも就活は人生を決める一大事。そこは自分の意志で決めたかった。とにかく東京で自分一人の力で生きてみたかった。今思えば、自立して自分の考えで誰にも邪魔されずに生きて、自分の価値を証明したかったんだと思う。

親は、就職に関しては私の意志を尊重してくれた。しかしMは違った。四国と広島に離れて暮らしていたが、就職するなら自分と同じ四国の企業にしてほしいと言われた。
口八丁手八丁で岡山の大手マスコミや四国の大手企業でも募集をかけていることを調べてきて、揺さぶりをかけてきた。「東京に行くなら別れる」と言ってきた。
今の私がもし当時の私にアドバイスできるなら「そんな男とはとっとと別れなさい」と言うだろう。しかし、当時の私はぐらついてしまった。Mは私にとってはじめて肉体関係をもった男で、母から「そういう関係になったら結婚しなければならない」と言い聞かされてもいた。今思うと本当にバカがつくくらい素直で愚かだった。

当時、バブル絶頂期。学生にとっては売り手市場で、企業は競って人材確保のために、あの手この手で他の企業を受けさせないようにする「青田刈り」というものが行われていた。
私が内定をもらった会社も、入社前研修と称して「軽井沢でゴルフ合宿」を計画していた。軽井沢!しかもゴルフ!ワクワクした。なのに、私はMから混乱させられている最中だったので、返事を先延ばしにしてしまった。その理由も馬鹿正直に「四国の企業を受けるため」と言ってしまった。採用担当の人は少し説得を試みてくれたが、私が即答しなかったため「わかりました。今回はご縁がなかったということで」と電話を切られてしまった。

その晩、私はこれまでしたことがないくらい死ぬほど後悔した。できる事ならもう一度電話して、平謝りして「採用してください」と言いたかったが、その勇気はなかった。結局、その後四国の会社も岡山の会社も不合格となった。私は就職難民になってしまった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?