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はじめて身体を売った日の話

今日は昔話をします。わたし、大久保公園で立ちんぼしていたことがあるんです。
今となっては普通に風俗店で働いているけれど、はじめて身体を売ったのは路上でした。

今より若くて無知でした。自分に価値があるかも分からず、男のひととも上手くいってなくて、将来が怖くて、どうでもよかった。
死んでみたかった。
怖い人に当たって殺されたらラッキーだと思って路上に立ちました。

8月の焼けつく陽射しだけじゃ狂いきれなかったから、沢山お酒を飲んでGoogleマップを頼りに大久保公園を目指しました。
泣きながら聴いていたオフコースの「眠れぬ夜」がとても素敵でした。

若い女のひと、年取った男のひとがうろうろしているエリアでキョロキョロしていると、1人のおじいさんが近づいてきました。
「君、そういうのやってる?」
相手を目の前にすると、不思議と覚悟が決まるものです。うなづいた瞬間、既に売春婦になっていました。
相場を元に難なく値段交渉をし、2人で手を繋ぎながらホテルへ歩いている時、自分が自分じゃない誰かになれた高揚感を覚えていました。

おじいさんは碌に勃たなかったので挿入は叶わなかったのですが、一生懸命口と手を使って射精に導きました。
賢者タイムのおじいさんとの会話で印象に残ったものがあります。
おじいさんは、
「君がなんでこんなことしているか知らないけど、ブランドものやお金を追い求めるだけじゃなく、家族や今持っているものを大切にして、小欲知足の精神で生きていくんだよ」
と言いました。
「少欲」とはいまだ得られていないものを欲しないことであり、「知足(足るを知る)」とはすでに得られたものに満足し心が穏やかであることである
その仏教用語の説明を聞き、「はるかに年下の立ちんぼ相手に射精した後によくそんなこと言えるよな〜笑」という気持ちを抱きつつも、おじいさんの持つカルマを面白く感じました。自分を恥じているという一点だけで共感できたし、死ぬまで解脱できないと感じました。やさしいひとで良かったと思いました。

お互いの欲求を満たし合い、ホテル前解散。
1人になった時に感じたのは、自分が汚れてしまった悲しみではなく、えもいわれぬ達成感でした。
わたしは自分の身体を縛られなくて済むんだ。
幼少期からあらゆることを制限されて生きてきたわたしは、両親が最も忌み嫌う行為を自分の意思で達成できたことが本当に嬉しかったんです。

そして痛い辛い怖い目に遭うんじゃないかという恐怖と、難なく事が終わってやさしくされて今まで手にしたことのない額のお金を貰った安心感の落差に、とんでもない脳汁が出ていました。

その後何度か同じようなことをしたし、もっと過激なプレイなんていくらでもしたけれど、その日の衝撃に勝るものはありません。
実家を出る為に風俗を始めたとか沢山のお金が必要になって風俗を始めたなんて色んな言い訳を使っていたけれど、結局はじめて身体を売った日に出た脳内麻薬に射幸漬けになっているだけだと最近気づきました。

死んでしまいたくて始めた売春が、わたしをこの世界に繋ぎ止めるひとつの快感になっていることが、死にたいくらい気持ち悪いんです(プレイ自体には全く快感はありません)。
元々脳に快楽物質が足りていない発達障害の躁鬱病なので何かに依存することからは免れなかったと考えれば、薬物とかよりは多少身体にいいと自分に言い聞かせてなんとか自己肯定しています。

あの日出会ったおじいさんは、わたしをこの世に繋ぎ止めてくれた悪魔でした。

ありがとう。


2024.8.14

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