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ライニア乱記 神住む湖 第二章 平穏と騒動の狭間で 九、囚われの身
後頭部にずきずきとした痛みを感じ、リリは目を覚ました。ちょうど横にした体がぎりぎり入り切るほどの奥行きがあるこの部屋は、家具が見受けられない。窓はないものの、目の前の扉は少しばかり開いている。真っ暗なこことは違って、わずかに光の差す廊下へ出るべく、リリは起き上がる。それにしても今いる場所はどこだろう。自分はカルマをどうにか助けたくて、イホノ湖へ行ったはずなのに。
開けた戸の向こうには窓が見え、外がすっかり真っ暗だと分かる。もう深夜になっているのかもしれない。早くカルマのもとへ行かなければ。焦りと共にリリはさらに扉を押し開けようとして、向こうから現れた男に悲鳴を上げた。
「起きていましたか。ここまで驚くくらいの小心者が、よくイホノ湖へ立ち入れましたね」
灰色の髪が重苦しく見え、サングラスで隠れた目は不気味だ。トープと名乗った男は、自分が捕らえた少年――カルマの縁者か聞いてきた。すかさず認めると、彼が出した脅迫の内容を覚えていなかったのか疑われた。無論、恐ろしいそれはしっかり記憶している。しかしカルマを助けたい思いが、何より先行していたのだ。喫茶店でシランの言葉を聞いて、より反発が湧いてきた。レンでさえやる気をなくしてしまったのだから、自分が行くしかないと思った。
「その善意が、逆に彼を窮地に陥れているとは考えなかったのですか?」
今はすっかり日付も変わっていると、トープは言う。それからこちらを責めるような目つきでじっと見下ろしてきた。
「夜が明けたら、ワタシはあの少年を殺すつもりです。もう彼の知識に期待することはなくなりました」
「……待って、そんなのやめてください!」
思わずリリの手が、トープの腕を掴んだ。カルマは今どこにいるのか、何をしていたのか、裏返らんばかりの声で問い詰める。しかし男は自分が悪いのだと振り払うばかりで、真っ当に聞き入れようともしない。彼自身に罪など全くないと言わんような雰囲気を漂わせていた。
「せめてあなたが生きていることに感謝しなさい。ありがたいことでしょう?」
「なんで、私を生かしているんですか?」
部屋を出て行こうとしたトープに尋ねると、神の「降臨」に使うのだとあっさり返ってきた。神話を知っているかとの質問には、いくらか肯定できる。ざっくりしたあらすじの説明くらいなら、少しは自信がある。
「神を呼ぶには、信じる心が必要なのです。あの少年は信仰こそありませんでしたが、神にまつわる豊富な知識はあった。――それが役に立つことも、もう叶いませんが」
「神を呼んだら、どんなことが起きるんですか?」
いつの間にかリリは、高まる期待を抑え切れなかった。物語でしか知らなかった架空の存在が現れるなど、まさに「非日常」だ。一体どんな神が来るのだろう。このライニアを作ったというイホノか、または国と同じ名前を持つ父か、あるいは。
思い付く限りの名前を浮かべていると、ここで目が覚めた後の不安や緊張感が消えていく。頬が緩み、口がだらしなく開きそうになってさすがに我慢する。口内に唾がしみ出していて、下手をすればよだれが出てしまいそうだった。
対するトープは、先ほどから怪訝にこちらを見ている。眉をひそめて顔を近付け、いきなりのことにリリは恐怖を抱いて後ずさる。深追いしなかったトープは、冷静な声で話しだす。
「ワタシに、手を貸してくれませんか?」
すかさずリリは、首を縦に振っていた。彼について行けば、楽しいものが見られそうな気がする。自分が乗り気であるにもかかわらず、トープは渋い表情をしたまま廊下へ出て行った。姿が消えてからリリは本来の目的を思い出し、慌てて扉の外に顔を出す。
「カルマくんのことは、助けてください!」
シャツの上に灰色のベストを着た男は、角を曲がって消えてしまった。全身から力が抜け、リリは床に膝を突く。自分の興味に気を取られて、本当にやりたいと願っていたことを忘れていた。情けない己を罰するように、拳で胸辺りを叩く。こんな時にカルマが持つ「強化」魔法が使えたら、肋骨にひびくらいは入るだろうに。いくら叩いても、弱い力では咳さえ出ない。
やがてリリは自らを傷付けることも諦め、床に顔を押し付けて泣いた。この家らしき建物の全体に聞こえるよう慟哭するが、誰も答えてくれそうにない。ひどく虚しくやり切れない心が、リリに渦巻いていた。
少しばかり慣れてきた椅子での睡眠から、カルマはセレストの呼び掛けで起こされた。結局壁を破壊し切れず、残りの作業を後に回すことにして休んでいたのだ。まだ外の暗い窓を見上げ、カルマは痛む肩や首を揉んで立ち上がる。そしてセレストが指差した戸棚の裏から物音がしていることに、ぼんやりと残っていた眠気が吹き飛んだ。
壁に穴を空けた時に地面が見えたので、ここが外へ繋がっているとは分かっていた。ならそこからの脅威も警戒するべきだったのだ。もしトープが回り込んで、脱出の企てに気付いていたら。
カルマは息を呑み、セレストと目を合わせる。数日間同じ部屋で過ごしてきたからか、互いの考えがうっすら分かるような気がした。カルマが戸棚の脇に両手を置き、セレストは椅子を持ち上げる。二人で頷き合い、まず自分が一気に棚を奥へ押しやった。そしてすかさず、セレストが穴目掛けて斜めにした椅子の足を突き入れる。無事に侵入者へ当たったのか、大ガエルの鳴き声にも似た聞き汚い叫びがする。それにセレストが慌てた様子を見せ、椅子を置いてしゃがみ込むと穴の外へ声を掛けた。
「フュシャ? あなた、フュシャね?」
「そうだよ、よくあたしの利き手を殴ってくれたなぁ。お前さんがそこまで暴力的だなんて、思わなかったよ」
穴の外にいるのは、セレストの知人らしい。フュシャという名が彼女の大切な人のものだったと思い出し、カルマは恋人へ詫びを入れてから状況説明する女を見た。やはりフュシャなる人間は、セレストにぴったりの頼り甲斐ある人だった。外で聞こえる声が女のものに近い気がする点がややこしいが。
フュシャがこの家に辿り着いたのは、日付が変わる前の夕方だった。探し回った末にやっとこの部屋を見つけたのだという。
「ところで、紫髪の物騒な女を見なかったかい? ここへ向かっているとは聞いてたんだけど、あたしより先に行っちゃって」
フュシャの言う女には、カルマもセレストも思い当たりがない。そもそも今日は、トープとイムト以外に会っていなかった。それを聞いたフュシャの溜息が、穴を通して聞こえる。
「……あいつ、何かやらかしてなきゃ良いけど。さて、そろそろお前さんがたの救出に取り掛かろうかね」
フュシャは魔術を用いて壁を外から破壊し、自分たちを引き出してくれるそうだ。もうすぐ人一人分は通れそうな穴なので、さほど苦労はないだろう。カルマたちが扉の側へ移った後、フュシャは何らかの魔術で穴を少しずつ広げていった。ものへ叩き付けているような音はするが、実際の動きは想像がつかない。彼女も「強化」魔法が使えるのかセレストに聞いたが、否定された。フュシャが持つのは「自在」魔法であり、あらゆる武器や魔術を使いこなせるらしい。
「まぁ、あの人は飽きっぽいからどの技もしっかりとは身に付いていないの。もったいないわよねぇ」
セレストが笑って呟いた時、外の闇がはっきりと穴から見えてきた。向こうが用いたらしい、ものを砕くための道具も覗いている。穴はやっと這って出られる程度の大きさになっていた。早速入ろうと足を動かしかけて、扉の叩かれる音にカルマは立ち止まる。
「夜分に悪いですが、少年には話があります」
トープの冷ややかな声が、カルマを一瞬凍り付かせた。そして咄嗟に扉へしっかりと背を付け、セレストに戸棚を元の位置に戻し、その中へ隠れながら逃走するよう仕草だけで求めた。口を開いた彼女へ、静かにさせる合図を出す。後ろでは戸を叩く音とトープの疑問が立て続けに響いていた。
セレストはなるべく物音を立てないようにしながら、カルマの指示通りに動いた。姿の見えないことを確かめ、カルマは扉から離れる。ようやく部屋へ入れたトープは、まずこちらを睨んだ。
「扉が開かなかったのは、どういうことでしょうか?」
「立て付けが悪かったんじゃないんですか?」
カルマは白を切りつつ、トープの意識をこちらへ集中させようとする。しかし彼はすぐに部屋の異常に気付くと、セレストのいる閉ざされた戸棚へじっと視線を定めていた。