ライニア乱記 神住む湖 第二章 平穏と騒動の狭間で 三、シランの牽制
シランは母に渡された品書きをぱっと開くと、紅茶だけを頼んで冊子を返した。そして余裕を挟まないように、レンたちへ畳み掛けてくる。
「イホノ湖で愚かな計画がされようとしているわ。一応、貴方達に知っているか聞きに来たのだけれども」
「……トープのこと?」
アーウィンに聞いた話を、レンは率直に伝える。彼が危機感を抱いて計画を止めようとしていることも明かした。
「貴方、まさか彼に倣って止めに行こうとしているのではないでしょうね?」
先ほどまでリリと話していたことを指摘され、シランのそばに立つ体が微動だにしなくなる。座ったままでいる友の顔も青ざめ、予想通りの展開に心騒いでいるようであった。
トープを挫くため動くことに危険があるとは、レンも分かっている。前に邂逅した時と同じように指摘するシランには、今さらのような気持ちも覚える。そんな苛立ちも抱えつつ、レンは店員から茶を受け取る女の裏を読む。
「シラン、もしかしてわたし達を心配している? だからわざわざここまで来て忠告を――」
「私は人間の愚行を見逃せないだけよ」
その点では湖に侵入した少年――カルマは愚かだったと、シランは吐き捨てる。義務教育も終えていない幼い男が、なぜ危険な者の掌握する場を訪ねたのか。おかげで在籍する学校には迷惑を掛けており、生徒たちに不安を与えている。少年の考えは理解できないというシランの話を、レンは反論せずただ耳に入れていた。ちょうど彼女と似たようなことを、自分も思っていたところだった。
カルマの行動は褒められない。そう考えていたレンは、テーブルが強く叩かれる音に虚を突かれた。椅子を蹴倒さんばかりの勢いでリリが立ち上がり、目元を厳しくさせている。そしてレンが聞いたことのないほどの大声で彼女は訴えた。
「カルマくんだって、事件を解決しようとして――私たちの不安をなくそうとしてあんなことをしたんじゃないんですか!? 勇気を出して動いたはずなのに、そんなひどく言わないでください!」
友がこれほどまで人に反抗する様を見たのは、初めてかもしれない。今まで大人しく引っ込み思案で、目立つことさえ好まないようだったリリは、じっとシランを睨んでいる。対する女はカップを持つ手をそのままに、さらりと突き放す。
「彼が迷惑を起こした事に変わりはないわ。持っていた思いはどうであれ、最終的には皆を不幸に陥れたのよ」
「確かに捕まっちゃって悲しいけど、まだ終わったわけじゃありません!」
リリは声も裏返らんばかりに叫び、顔を目の色に迫る赤さに染めている。思っている者を悪く言われることが、よほど気に入らないようだ。手をテーブルに何度も打ち付け、床に蹴りを入れる彼女を、店中の客が呆然と見つめていた。
「カルマくんはこの事件をなんとかしたかったんです。……もちろん私たちだって、そのつもりですから!」
「ちょっと、わたしを勝手に加えないで!」
まだ心が決まっていないのに、いきなり騒ぎに関わるなど出来ない。客たちの視線が集まっていることも気まずくなり、レンはリリの袖を引いて座らせようとした。だが友は素直に従わず、逆にレンを問い詰めてくる。
「レンちゃんは『白紙郷』のときみたいに動かないの? 魔法がまた使えるようになっているかもしれないのに!」
リリが周りも憚らず明かしたために、今度は客の目がレンへ移る。たまたまそばを通りかかっていた父も、手にする盆の行き先を忘れたように立ち尽くしている。しばらく店内は静けさに包まれていたが、近くの席に座る常連客がレンに尋ねてきた。自分はいつの間に魔法を使えるようになっていたのかと。答えるより先に、隣で物音がする。レンが気付いた時には、リリは鞄を椅子の下に入れたまま店の扉へ駆けていた。
「誰も手伝ってくれないなら、私が一人でカルマくんを助ける!」
扉に着いた鈴を派手に揺らし、リリは外へ出て行った。レンが追い掛けようと体の向きを変えるが、シランにその先の動きを阻まれる。あの彼女は、今自分たちがどう動いたとしても聞かないだろうと。
「彼女が頭を冷やすか、動いた先で愚かさを思い知るまで待ちなさい」
シランの話を聞いているうちに、窓の向こうにも友の姿は見えなくなった。仕方なくレンは座り直し、リリのいた席を眺める。
「彼女は、非日常を楽しんでいるだけよ」
不意に呟いたシランに、レンは顔を上げる。彼女が言うには「白紙郷」事件の際と同じく、リリはこの異常事態に悦楽を感じている。むしろ混乱の日々が続けば良いと思っている。その言葉が、レンには納得できなかった。リリはカルマを本気で助けたいのではないか。普段と違う日々を求めているなど、想像できない。
「少年を救う事と、イホノ湖の騒ぎを解決して日常を取り戻す事は違うわ。あくまで事件はそのままに、ただ自らの欲を満たしたいのが彼女なのでしょうね」
シランはゆっくりとカップに口を付ける。確かにカルマを助けたからといって、トープの思惑を阻止することとは繋がらない。シランの言葉一つ一つに頷きたい気持ちでいると、どうも彼女に言い含められている気がしてレンには不快が差した。何か反論が出来ればかっこいいのだが、今のところはどれもほとんど頷けてしまう。
自分たちには厳しい態度を示しているシランだが、彼女には今後の予定があるのか。レンが問うと、イホノ湖へ行って「愚か」な人々を止めるのだと即答された。その対象はどんな人なのかというと、今回のような事件を起こす者のことらしい。
「本当は誰も彼も構わず、全ての人間が愚かだと思っているのだけれども」
はっきりしたシランの語に、各々の時間へ戻っていたはずの客たちが再びこちらを向いた。自分たちが悪く言われているのかとある者は戸惑い、ある者は不機嫌を顔に表している。
本当ならここでもずばっと切り返すべきなのだろうが、レンの口からは何も出てこなかった。「白紙郷」事件でも、彼女へ反論しては逆に押されてしまった。その時に生まれた諦念が、自分を消極的にさせているのだろうか。
そしてシランは、前にも聞いたような「愚かさ」の語りを始める。人間は絶えず争いを起こし、現代においては子どもにも武器を持たせている。平気で人を傷付け、その罪を顧みない。昔に魔法の師匠から聞いたという受け売りを、シランは喫茶店全体に響く声で話す。
「――そういう意味では、私も『愚か』であることには違いないわね」
最後に女が低く零し、レンはその憂いに満ちた表情にはっとした。彼女はいつも人の在り方を考え、心を痛めているのではないか。武器云々と言っていることからも、本当は平和を望んでいるのかもしれない。
女の顔に映っていた影は、間もなく取り払われた。シランは残っていた茶をさっと飲み干し、床に置いていた刀を取るとしばし眺める。彼女はこの武器で「制裁」魔法を使えるのだと、こちらを見ないまま告げた。
「これで事件に関わっている『愚か』な者を斬り捨てるわ。本当は全ての人間に対して行いたいのだけれども」
それから沈黙が下り、レンは気まずさをどうにかしたい心に駆られた。もう飲み物も食べ物も、卓上には残っていない。いつまでもシランを凝視していることも失礼だろう。やがて彼女がこちらへ目線を投げ、緊張に唾を飲み込む。
「貴方、イホノ湖へ行くつもりはないでしょうね?」
「……今のところは」
肯定が、レンの口を突く。シランの気迫に圧倒されただけではない。変に動いてカルマのようになりたくもないからだ。一方で彼の安否も、リリの向かった先さえ気になって堪らないが。
こちらの返事を本気だと分かったか、シランはそれ以上問い詰めず席を立った。飲み物と同時に渡されていた紙を、レジに立つ母へ差し出す。滞りなく会計を進める母は、客人に果昇から来た者か確かめてきた。相手が東にある国の血を引いていると知った彼女が、いかにも楽しげな笑みを浮かべる。
「果昇……なんか懐かしい感じがします。まぁ、私だけの話ですが」
厳しいことも言うシランに、よく笑顔で接客が出来るものだ。会う度に緊張する女が去った後も、レンはいつも通りの態度でいる母の度胸に舌を巻いていた。
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