ライニア乱記 神住む湖 第三章 ライニアの神 八、静寂戻る湖
レンたちが去るのを見届け、ヘイズは作業する部下たちを残して湖を取り囲む森へ入る。程なくして水面もしかと見える辺りで、四角い石を前にしゃがむアーウィンを見つけた。土に半分ほど埋まっている要石に短剣をぶつけ、何度もひびを入れて破壊する。立ち上がった彼はやっとヘイズに気付いたように息をつく。
「今壊したのが最後だ。なかなか見つからなくて時間が掛かったが」
「ミュス――アンフィオの危機だから、今回はライニア人に協力したのか?」
ヘイズの問いに対し、アーウィンは即座に認める。ほとんど何も出来なかったと悔やんで呟いたかと思えば、相変わらずライニア人に厳しい態度を示した。
「普段なら『野蛮人』を助けようなんてしないさ。神が『降臨』されるのが許せなかった。……『少数派』の女も、助けてやりたかったけどな」
後半の言葉は、ぼそりとしていてヘイズには聞き取り難かった。いつも同族以外へ差別的なアーウィンだが、湖畔ではライニア人の血を引くレンやルネイと行動を共にしていた。彼らを排そうとは思っていないのか尋ね、しばらくして肯定が返る。どうもレンたちは同情すべき「少数派」と見做しているらしい。
「手出しはしないと決めているんだ。前にひどいことを言ったからな……」
アーウィンが寄せた眉の根本を押さえる。危険な人間と聞いていた彼がここまで深刻な様子を見せることが、ヘイズには意外だった。そんなアーウィンの思う「少数派」とは何なのか。ライニアの中では珍しい――例えば魔術を使えないような人で、かつ迫害に近い扱いを受けている存在だと、ミュスはこちらの疑問に答える。
彼の目標は、ライニアをミュスだけの土地に戻す「故国奪還」だったはずだ。そのために世界で同志を集めるべく動き、「白紙郷」に入って国を変えんとしていたこともヘイズは知っていた。それを念に置いて、鞘入りの短剣を鞄に仕舞う男へ尋ねる。
「やたらとライニア人やその血を引く者へ情けを見せて、『故国奪還』が叶うと信じているのか?」
それまで涼しい顔でいたアーウィンが、両目を見開いた。肩に掛けていた鞄を乱暴に地面へ置き、ヘイズへ掴み掛からんばかりに一歩大きく踏み出す。
「言われなくても分かっている! ただ俺は、自分と似たような目に遭った人間を見過ごせないだけだ!」
唾が飛びそうな大声にも、ヘイズは動じない。アーウィンの心根が本当は優しいものであろうことを、黙って感じていた。だがそれが甘さとして、後々目標へ響くのではないか。それが確かな懸念だった。
自分を逮捕しに来たのか聞いてくる男へ、ヘイズは否定する。通常の逮捕は警察の仕事であり、こちらが勝手に動けば法に触れる可能性もある。しかし特別に認められた者であれば、軍の登場も辞さない。ヘイズが追跡取りやめを求めている大乱の首謀者が該当しているのはもちろん、トープを殺したあの女もいずれ加わるだろう。そして目の前にいる男も、軍では危険人物として名が知れ渡っている。
「アンフィオに『故国奪還』を求める者はいくらかいると聞くが……貴方はその中でも過激派だ。そうだろう?」
確認したヘイズに、アーウィンは首を縦に振る。引き結んだ唇は吊り上げられ、内にある凶暴さが滲み出ているようだった。
イホノ湖に神の現れた翌日、カルマは前と変わらず学校へ通っていた。いつもなら彼にしつこく迫られる朝も、今日は穏やかでレンは気楽だ。カルマが座る席を女子生徒たちが囲み、別の学級からも様子を見に来る者がいる。皆、彼の無事や捕らわれていた間のことなどを次々に聞いていた。
「ずっと心配してたんだよ、カルマ! もうわたしたちを寂しがらせないで!」
「分かった、ごめん! これからは勝手なことをしないようにするから!」
一人一人に対応するカルマも、どこか大変そうだ。数日気掛かりだったことは自分も認めるが、あそこまで本人に関わらなくとも。やや呆れて自席で状況を眺めるレンの隣では、リリがカルマから顔を背けている。彼女も勇気を出したのだから、カルマももっと構ってやって良いだろうに。
「……神さま、見たかったなぁ……」
リリの小さな声に、レンは耳を疑う。彼女はカルマではなく、別のことに思いを巡らせていたのか。シランの言葉が蘇ると同時に鼓動が速まる。リリは本当に非日常を望んでいて、今回の騒ぎにも心残りがある――すぐには受け入れ切れない考えに囚われ、レンはカルマが呼び掛けていることに気付かなかった。廊下の外から、まだ大勢の女子が教室を覗いている。
「あのレンさんと一緒にいた子――ルネイくんだっけ? 『姉さん』って言っていたけど、弟なの?」
自分に兄弟はいなかったはずだと、カルマは確かめてくる。元は他人だがあるきっかけで知り合ったとだけ、レンは明かす。ついでに彼の方が年上だと伝えると、カルマは目を丸くして驚きの叫びを長く発した。
「昨日使った魔術も、少しだけ教えてもらった。人を探していて、またすぐに旅へ出るかも。今はうちに泊まっていて――」
「レンさんの家に!?」
話を遮ってきたカルマが、足をばたつかせて顔を宙に向ける。何をしているのか怪訝に思っていたレンは、彼がルネイの連絡先を教えてくれるよう訴えてきたことに首を傾げた。どうやらルネイへ頼みがしたいそうだ。慌てているカルマが気になり、仕方なく言う通りにする。人付き合いが得意でなさそうなあの少年が、困惑しなければ良いが。
教師からイホノ湖周辺へ行くなと言われることはなくなった。授業はつつがなく終わり、放課後を迎えようとしている。魔術実技はなかったが、恐らく日常に戻ったことでまた使えなくなっているだろう。リリと外へ向かう途中で考えていたレンは、校庭の先にいる姿に目を留めた。門のそばに突っ立っているのがルネイと分かり、リリの戸惑いも気にせず走りだす。
「カルマさんに呼ばれて決ました。何やら焦っていたみたいですが……」
これからどこかへ行くところだったのだろう。リュックサックを背負った旅の装いでいるルネイは、どこからか大声で名前を呼んで駆け寄ってくるカルマを見んと爪先立ちをした。レンとリリが呆然とする前に、息を切らした少年が現れる。息を整えた後、彼はルネイへ腕輪を付けた手を伸ばして深く頭を下げた。
「俺を魔術の弟子にしてください! ルネイ大先生!」
いきなりの提案をされた側も、それを横で見ていた側も、門を出ようとした他の生徒までカルマを見て固まる。長く礼をしていた彼はやがて頭を上げ、周りの様子も気にせず早口でまくし立てる。
「昨日見た魔術、感動しました! あれはただの人間には出来ない、素晴らしいものです! あんなに綺麗で、長く効果のある強い壁なんて、簡単には作れない! レンさんにも手ほどきをしていたんですよね? なら、俺にもお願いします!」
「ぼく、教えるのは苦手なんですけど……」
謙遜するルネイの内心も、レンには簡単に想像できる。カルマが認める、魔術の腕に関する基準もよく分からない。だがルネイの指導は、確実に昨日役に立った。シランに襲われかけた人々を逃がし、リリも「回復」魔術を受けて支障なく過ごせているのだから。
「もっと自信持っても良いんじゃない? ルネイくん」
レンが笑って告げると、ルネイは余計たじろいでしまった。自分とカルマを順番に見、口をぱくぱくとさせている。自分が軽率な発言をしたばかりに、彼を困らせた。かっこ悪いことをしたと、レンはまたも己を悔やんだ。対してカルマは反省もないように、ルネイへさらに強い押しを掛けている。
「俺、レンさんを守れるくらい強くなりたいんです! どうか!」
しつこいカルマに、ルネイの表情も複雑だ。それも構わず、今度は少年が熱く夢を語りだした。医者になりたい、人の役に立ちたいと訴えるカルマと、いつの間にか門のそばに集まっていた見物人の注目にルネイも折れた。しばらく村に留まらなければならないが、ここまで頼み込んでくる人を放っておけないと彼は苦笑する。人探しのことがレンは気になったが、ルネイはすぐに思考を切り替えていた。
「少し休んでみることにします。闇雲に動いても、疲れるだけだと思うので。ところでカルマさんは、どんな魔術を学びたいですか?」
すかさず「治療」魔術だとカルマは応える。「回復」魔術より高度で専門的なものだったか。それなら優れた技を持っている人の噂を聞いているとルネイが零す。博物館なる建物を作っている人とのことだが、レンには知らないことだった。博物館は教科書に載るような歴史的資料やら美術作品やらを展示する場所だと聞いている。ライニアにはほとんどないそれが、「治療」魔術とどう関係があるのか。疑問を抱えるもやり取りを続けるカルマとルネイに介入も出来ず、レンは二人に別れを告げた。
「レンちゃん。イホノ湖へ行かない?」
学校から少し離れた先で、リリが不意に言ってきた。あそこの安全は確認されたが、いきなり訪ねて良いものだろうか。朝に湧いた不安もまた現れそうになり、レンは返事を躊躇う。
「ねぇ、どうしても行きたいの。少し見るだけだから、いいでしょ?」
袖を引いて頼むリリに、カルマが重なる。仕方なくレンは受け入れ、二人して近くの駅からイホノ湖へ向かった。畔には昨日のような大勢の人はいない。水面は波立っておらず、日差しを受けてきらめく。ここも日常に戻り、穏やかであるようだ。胸を撫で下ろすレンの隣で、リリの顔はどこか渋い。眉間に皺をわずかに寄せ、湖を睨んでいるかにも見える。
「リリ、どうかした?」
声を掛けると、彼女は目を瞬かせて首を振る。先ほどの表情は気のせいだと思いたくて、レンは湖へ視線を戻す。じっと見つめていると、昨日現れた神の白い姿が不意によぎる。今は天界とやらで、あるいは人の思いの中で眠っているのだろうか。もう誰にも勝手に起こされないことを願い、レンは水面に背を向けた。畔に広がる森のどこかで、鳥が高く鳴いているのが耳に届いた。