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ライニア乱記 神住む湖 第三章 ライニアの神 三、神を呼ぶ

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 湖を取り囲むように潜んでいた軍人たちが、トープへ一心に視線を注いでいる。直前まで見えた物々しさはどこへ行ったのか、畔よりさらに離れた場所で様子を窺っていたレンは疑問を抱いた。トープが本を開いてから、変化があった気がする。彼に突っ掛かっていたイムトが移動を始めた後、隣のルネイが言う。
「恐らく、『洗脳』魔法が使われたのでしょう。もしかしたら本がなくても出来るかもしれません」
 警戒を続けるよう忠告して、ルネイはじっと前方を見つめ続ける。相手を使用者の意思へ強制的に賛同させる「洗脳」魔法は、トープより距離を取っている今は問題なさそうだ。しかしこれから湖畔へ踏み込んでいくとなれば。昨夜教わった壁でも防げるか懸念が浮かぶも、それに怯んでいる暇はレンになかった。せっかく危険を覚悟でイホノ湖へ赴いて、今さら逃げるなどかっこ悪い。
 しばらく姿を消していたイムトが、再びトープの方へ戻ってきた。裾の長いワンピースをまとった女を抱え、草地の上に置く。レンより少し前で身を乗り出していたフュシャが、悔しそうに呟く。
「……セレストだ」
 遠くからで表情はよく見えないが、どうやら気絶しているらしい。彼女が「降臨」の鍵かアーウィンが確認し、フュシャが肯定した。最優先は、セレストの奪還で決まった。
 今度はイムトが、やはり気絶したリリを運んでくる。彼女に対してすぐに何か対処できないことが、レンには歯痒い。しかし呼ばれた神とやらが仮に邪魔をしてきたら、誰も助けられない。加えてセレストには、「能力」の影響を受けた身の危険もあるのだ。
「分かった。先にセレストさんですね?」
 案に乗ったレンはアーウィンの手招きを受け、ルネイやフュシャと共に集まった。小声で作戦を話し合い、最終的に決定する。
「お待たせいたしました。いよいよ神を下ろすとしましょうか」
 ちょうどレンたちがばらけたところで、トープが人々の方を向いて話しだした。風で本のページがめくれるのも気にせず、男は期待に笑みを深めている。
「皆様のおかげで、信仰は集まりました。そして神を呼ぶ者もここにはいる。やっとこれで、ライニア人の悲願を果たすことが出来ます。――そもそも神話を信じないことがおかしいのです」
 湖の周囲を回るように、レンは一人で木々の間を通り抜ける。そのさなかにトープが訥々と明かすことが耳に入る。トープは信心深い両親から神話を教えられて育ち、当たり前のようにライニア独自の神を信仰していた。しかし異国より入り込んできた宗教の普通になったライニアで、一家は外れた存在であった。町の礼拝にも行かなかったので、近隣住民には奇怪な目を投げられ続けていた。父が修道士に暴力を振るって元いた場を離れ、それから幾度も各地を転々としてきたが、どこにおいても受け入れられない。
「それでもワタシは、己の神を信じ続けようとしました。それが揺らぐこともありましたが」
 サングラスを掛けた男の顔が、はっきりと捉えられるようになってくる。カルマを保護したヘイズの乗る軍用車を視界の片隅に入れ、レンは木の陰で立ち止まる。十四の時に母が病に倒れた際の奇跡を、トープは誇らしげに語っていた。
「いくら祈っても、神は応えてくださらなかった。これまで受けた嫌がらせを思って、信仰をやめようかとも考えました。――愚かでした。神は、ワタシを見捨ててなどいなかったのですから」
 忌避していたホロン教の教会へ行こうとした時、慈愛の神であるルーフレの声をトープは聞いたという。慌てて帰宅した彼は、伏せていた母が起き上がって元気そうでいるのを目にした。それで神の存在を確信したのだ。
「……本当にルーフレって神様?」
 自分にしか聞こえないような声で、レンは疑問を零す。トープはただ幻聴していただけで、母が治ったのもたまたまではないのか。あるいはこの場で話すために作り出したものか。どうも信じ切れずにいると、トープが本を改めて構えた。その内容が読まれそうになり、手はず通りに耳を塞ぐ。対策を知らないだろう人々が興奮のざわめきをする前で、地面に寝かされていたセレストが苦しみだした。眉間には深い皺が寄り、上に引っ張られていくような胸を途中で落としては呻いている。この時点でレンに動きたい思いはあったが、今は仲間を信じて待った。
 セレストの周りを、淡い青色の粒子が覆う。女を守る壁のように広がったそれに振り向くトープのそばを、銃弾が掠った。フュシャは脇の方から男を狙ったが、外れたようだ。しかし作戦が終わったわけではない。耳から手を離したレンの遠く背後から、笛の音がする。湖の敷地として認められていない場所から、アーウィンが楽器を奏でているのだった。トープの手元から本が浮き上がり、彼が掴む前に湖の外へ飛んでいく。
 突然の事態に戸惑いを隠せずにいるトープを、レンは見逃さなかった。大股で飛ぶように駆け、集まる人々の動揺も構わず彼の前へ躍り出る。腰のホルスターから出していた拳銃は、神を呼ぼうとする男へまっすぐ照準を合わせる。
 レンは引き金を動かさず、いまだ小さく呻いているセレストを見下ろした。美しい紫がかった水色の髪は乱れ、息をつく彼女の顔に汗で貼り付いている。「感応」能力で溜まってしまった魔力が、自ら抑え切れないところまで来ているのかもしれない。それを思ったレンは、ゆっくり後ろへ下がろうとしたトープへ叫んだ。
「よくもセレストさんを、ここまで苦しめたな!?」
 その魔法も然り、人を思うままに使おうとする男への怒りが収まらなかった。
「セレストさんが死んだらどうする!? 何てひどいことするんだ、お前!」
 背後で足音がする。移動していたルネイとアーウィンがセレストを持ち上げ、レンがいた辺りで具合を見ることになっている。そしてフュシャも引き金に指を引っ掛けて拳銃を回しながら、レンの隣で男をなじった。
「お前さん、誘拐の時にセレストの両親にも魔法を使ったんだろう。おかげで二人とも、ひどく悔しそうだった! この思いが分かるか、外道! 人を利用する人間には、理解できないんだろうな!?」
 トープはただレンの向ける銃口を見つめていたが、やがて口から笑いを漏らした。何が面白いのか、レンはフュシャと共に一歩前へにじり寄る。
「彼女の能力には、非凡なものがありました。『神』を下ろすために、使うしかなかったのです」
「それなら他の人質二人は何だったのだ。彼らも『呼び水』ではないのか?」
 覚えのある低い声と硬い足音に、レンは新しく現れた者を見返る。軍用車に控えていたはずのヘイズが、厳めしい形相でトープを問い詰めていた。
「『感応』の女ほどではありませんでしたが、やはり『呼び水』には使えると思ったのです。少年の方は疑っていましたが」
 カルマについては神話の知識を見込んでいたのだとトープは話す。それも約束のことがあった以上、用済みとして使うつもりだったが。カルマへの扱いも身勝手だと、レンは心の中で呆れる。命を保証されたかと思えば手のひらを返されるなど、翻弄されていると言っても程がある。
 トープへの怒りとセレストへの心配に気を取られていて、肝心の助けたかった者を忘れそうになっていた。急いでレンは視線を動かし、置かれていた場所にリリの姿がないと気付く。そしてイムトが彼女を持ち上げて靴に水の触れる際までにいたことに、遅れを取ったと悟った。
 すかさずレンが走りだしたと同時に、イムトがリリを湖へ投げ入れた。手を伸ばしても到底届かず、歯を食い縛る。セレストを優先していたために、リリを危険へ陥れてしまった。彼女の名を呼び、膝から地面に崩れる。何とか手を突いて見上げた先で、レンは思わぬものを目にした。
 水中に落ちていると思っていたリリの体は、横になったまま湖のぎりぎりで浮かんでいた。彼女の下には粒子の壁があり、レンはルネイを見るが首を振られる。なら魔術を教わった自分が、無意識に使っていたのか。
 このまま友を助け出そうと走りたかったレンは、しかし動けなかった。トープが意味の分からない文章を述べており、辛うじて耳は塞げる。イムトも湖のそばで本を広げ、ページを光らせている。
 ルネイたちの去った方向で、再びセレストの苦しむ声がした。フュシャが彼女へ駆け寄る足音がする。そして刹那、湖から人間の大きさと変わらないほどの腕が現れたと思えばリリを守っていた壁を突き破った。姿勢を崩した少女は腕の中に入り、変わらず瞳を閉ざしている。
 やがてリリを救った者の正体が、徐々に姿を明らかにした。白い髪は腰まで伸び、顔つきや体格は男とも女とも判断が付かない。ゆったりとしたズボンらしきものを履いた脚の下には、柄の長い筆が湖面に置かれている。穂の虹色に輝くそれが、レンの以前探した「虹筆」にも似ていた。
 リリに触れているのだから、肉体はあるのだろう。アーウィンほどではないが白に近い肌をぼんやり光らせ、その存在は口元を緩めている。慈悲の感じられる様にレンがぼうっとしていると、トープの笑いが聞こえた。湖全体へ響かん声を発して彼はイムトの隣へ行き、湖から出てきた者へ頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました、イホノ神。ずっとあなたのお姿を見ることを、待ちわびていましたよ」
 今いるのは、この湖に住むとされる創造神・イホノなのか。本当に呼ばれたことを信じ切れず、レンは水面に立つ神なる者を凝視する。額や背からは、ゆっくりと冷や汗が流れていた。

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