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ライニア乱記 神住む湖 第三章 ライニアの神 七、人のために

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 今のライニアに神話を信じる者が少ないとは、イホノも承知していた。それでも人々にわずかながら知識のあるために、忘却され存在の消えることを逃れてきた。だがいずれ時間の問題となるかもしれない。現実を受け入れる神の表情は、ひどく落ち着いていた。
「もう信者の少ないことが、当たり前として慣れていました。これ以上、でしゃばるつもりはありません」
 誰も信仰しないからといって、それを責めない。人間に対して攻撃的な態度を見せない。神話に反発を抱くアーウィンのことも、そのまま受け入れそうだ。イムトの召喚したものとは異なる神の態度を、レンは改めて感じ入った。これが本当に神というものなのか。
「それでは、イホノ神は……このまま、消え去っても良いとおっしゃられるのですか? 誰もあなたを記憶にも留めず、歴史にその名を埋もれさせても構わないと!?」
 焦り気味に尋ねるトープへ、神は大きく頷いた。それに愕然として顔色を変え、伝道師はふらついて膝を突きそうになった体を持ち直す。今度は怒りの声を張り上げ、消失を受容する創造神に訴えた。
「いいえ、それはなりません! 世の中には神話のあらすじさえよく知らない愚か者もいるのです! 彼らを放置して良いのですか!」
「時代の流れだというなら、仕方のないことです。そもそもホロン教の入ってきたころから、我々への信仰は薄れかけていた。今さら気にすることはありません。あなたも私を信じているのなら、どうか聞き入れてくださいませ」
 イホノはトープへ手を伸ばし、その肩へ載せようとしたがすり抜けさせる。肉体のない存在で、現実にある物体には触れられないのだろう。しばらく声をなくしていた男が、今度こそその場に崩れた。神が見守る中、彼は膝も顔も地面に付けて泣いていた。土に汚れるシャツの袖から、吠えるような慟哭が漏れる。
 イホノたち神を思って、ずっと動いていた。皆がまた神にひれ伏すようになれば、彼らは報われると思っていた。信じ続けていたものが、こうも容易く否定されてしまうとは。嘆きを述べるトープが、わずかに袖の上から目を見せる。持ち上がったサングラスのことなど気にしないように。
「ワタシは、神にとってただ迷惑を為しただけなのでは……?」
「ええ、その通りよ。神の心も分からない、愚か者め」
 トープの後ろに移っていたシランを、レンは止められなかった。刀は迷いなく男の背に突き立てられる。言葉にもなっていない断末魔を残して、神の降臨を望んだ者は動かなくなった。
 誘導から戻っていた兵士たちが騒ぐ間、ヘイズがシランへ歩み寄ると彼女へ片手を伸ばした。シランの持つ武器の周りがわずかに光るが、彼女の一振りによってすぐに消え去る。魔法を払いのけられて舌打ちした軍人が、殺害者を糾弾する。
「彼は己の罪に気付いたようだった。これから裁きを経て反省する可能性もあっただろう。――その芽を潰して命を奪った貴方を、我々は放置することが出来ない」
「愚か者であれば、すぐに罰せられなければならないでしょう」
「貴方の言う愚か者とは――」
 ヘイズの言葉は、シランの攻撃に中断される。右肩を斬られた彼は傷を押さえながら、部下たちに逃げるシランを追うよう命じた。紫色の髪を揺らして、女は飛ぶように湖の敷地を出て行った。別の部下に包帯を巻いてもらったヘイズは、トープの遺体を確認する。そのそばでイホノも、哀れな人間を見下ろしていた。
 この者が神を強く思っていたことは、しかと伝わってきた。そう告げて丁重に弔うようヘイズに求め、イホノは湖を見回す。そして立ち尽くすレンたちへ目を細める。
「わたしもそろそろ、天界へ戻ることにしましょう。もうこの場にわたしを求める者は、いないのでしょう?」
 全身をぼんやり白く輝かせる姿は、まさに神々しい。その様をまだ見ていたいという思いを、レンはすぐに打ち捨てた。いつまでも神に、地上に留まってもらうわけにもいかない。急に呼び出されて人々のあれこれを見せられ、顔には出していないが動揺もしたはずだ。この神にも、元の日常へ戻ってもらいたい。レンがルネイとカルマを交互に見ると、彼らもイホノの言葉に頷いていた。
 これで事態は終わるかと思いかけて、レンはイホノへ足をふらつかせつつこい願うセレストに気付いた。フュシャがついて来るのも振り切り、泣きそうな声を上げる。
「どうかお帰りにならないで、イホノ神様! あなたはみんなが必要としているの」
 先ほどはそっぽを向かれてしまったが、神がいてほしいと人々が一時でも思っていたことは確かだ。己の魔力を懸けて呼んだ神へ、セレストは泣きながら残留を求めていた。そこにイホノがわずかに姿勢をかがめて諭す。
「神は見えなくとも、どこにでもいるものです。しかしこの湖にだけいると思えば、それでも良い。地上に下りなくとも、わたしは見守っていますよ」
 しかしセレストは、まだ袖で目元を拭い続ける。嗚咽こそ静かになっているが泣きやみそうにない彼女に、カルマがそっと声を掛けた。二人で囚われている間、彼はセレストの心を聞いていた。
「『呼び水』になるの、嫌がっていたじゃないですか。どうして急に神を呼ぶなんて――」
「みんなのためになりたかったの」
 セレストはぽつりと零す。どのような経緯でそう思ったのか、一向に話そうとしない。ただフュシャが、やがて納得したように呟いた。
「セレスト、思えばいつも誰かにやってもらってばかりだったもんな。まともに人とは会えないで、外にも出られないから何も出来なかったんだよな?」
 能力に振り回されないよう、セレストは動きを制限されてきた。人のために何かをすることさえ出来なかったのだろう。それを思うと、レンは単に彼女を責める気になれなかった。そこにルネイが人々の集まっていた場所を指差す。草が踏まれて倒れるぽっかりと空いた空間には、誰もいない。
「もうあなたが願いを叶えようとした人たちは、帰っていきました。だから無理して、人のためになろうとしなくて良いんですよ」
 そう話すルネイに、セレストは答えず呆然としている。言葉を呑み込めていないような彼女を納得させようと、レンも何か言うことを考える。かっこいいことを口にしたいもののすぐに出てこず、気付けばセレストは涙を収めてこちらを見ていた。焦りを顔に出さず、レンは小さく息を吸う。
「……多分、あなたは十分に人の気持ちへ応えましたよ」
 たとえ人に植え付けられて抱いた願いであれ、わずかにしか続かなかった思いであれ、セレストはしっかり叶えようとしていた。これだけでもかっこいいのではと、レンは今になって感じる。
「わたし、人のためになれましたか?」
 セレストの恐る恐るとした問いに、レンは肯定を伝える。他にいる誰もが神を呼んだ女を追及せず、優しい眼差しを向けていた。そこでやっと憑き物が取れたように、セレストは涙を睫毛に付けたまま口元を緩めた。
「それでは、もう戻っても良いでしょうか」
 イホノの問いに、セレストが頷く。すぐに神が身を透明にさせ、景色に溶けさせていく。セレストもレンたちも邪魔をせず、創造神が消えるのを静かに見届けた。
 イホノがどこにも見えなくなった後、湖には喧騒が戻った。ヘイズら軍の部隊が畔に倒れた遺体を回収し、レンはいまだ起きないリリに声を掛ける。ルネイに「回復」魔術を勧められ、直接的な怪我以外にも効果があるのか懸念するも行使する。右手に青い光を走らせ、体から離しながら全体を撫でるように動かす。そっと瞼に触れてみると、リリはゆっくりと目を開けた。
 起き上がった彼女は、まずカルマの無事を聞いてきた。そして彼がレンの隣にいると気付き、顔を両手で隠して小さく悲鳴を上げる。また具合が悪くなったかレンは心配したが、すぐにリリがカルマの手を掴んで喜ぶ様に安堵する。捕らえられたころから案じていたのだろう。ぽかんとしているルネイがカルマを知らなかったと思い出して、レンはざっくり紹介する。
 リリの反応に戸惑っていたカルマは、彼女が落ち着いてからセレストのもとへ向かった。しかし肝心の話したい相手にフュシャが抱き付いていることで、立ったまま固まっている。勝手な魔法発動を叱る彼女は驚くセレストに突き放され、顔に不機嫌を表す。
「前はこんなに乱暴なことをしてこなかったじゃないか。どうしたんだよ、セレスト」
「……フュシャさんって、女だったの?」
 一言発したカルマが、フュシャの怪訝な視線を受けてまたも黙っている。彼に何か励ましてやろうか、それとも勝手に立ち直るか。レンが迷っていた時、軍靴の音が耳に入った。ヘイズが帽子を取り、頭を下げている。
「今回も貴方がたには、手間を掛けさせてしまった。騒ぎの拡大を止められなかったことも含め、ここで謝罪しましょう」
 右肩の包帯が、血に滲んで痛々しい。使用の不安定な魔術には頼りたくなかったのか。シランに付けられたその傷が気になってレンは指摘したが、深くないと流された。思えば「白紙郷」事件に続いて彼と協力する形になったことが不思議だ。またどこかで会うことがあれば面白い――それが魔法を使わなければならない非常事態なら、少し厄介だが。
 ヘイズはセレストとリリへ向き直り、念のため病院で見てもらうことを勧めた。リリには魔術を施していたとはいえ、根本的な部分まで治っているか分からない。さらに慣れない魔法を使ったセレストには、より危険が潜んでいるかもしれなかった。だがリリが真っ先に、自らの体を平気だと評する。そしてセレストも、両親と相談して医者に掛かることを考えると伝えた。いつも能力による体の影響を見てくる人がいるとのことだ。
 ヘイズは今回も送ろうとしてきたが、そう遠くもないのでレンは断った。後のことを彼の率いる部隊に任せ、レンたちは帰ろうとする。そこで急にアーウィンのことが気になった。いったん離れると言ってから戻っていない。リリたちより足を速めてレンはイホノ湖を出たが、一目にアーウィンの姿は見えない。探していたら帰りが遅くなってしまうか。リリに呼ばれたのも相まって、レンは駅に繋がる道へ重い足を進めていった。

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