ライニア乱記 神住む湖 第一章 迫る異変 五、大佐ヘイズは憂慮する
改めて「白紙郷」事件の記録を読み返すと、自らの至らなさが多かったことを痛感されてならない。そうと気付かずに敵の手を借り、軍の現状を教える機会を与えてしまった。功績を認められて昇進したとはいえ、喜んでばかりもいられない。以前と変わらぬ国防省の一室にいたヘイズは、紙束を机に置いて天井を軽く見上げた。エティハから得られたものは確かに多かった。だがそれ以上に、利用されていたことへの後悔が募る。
すぐに人を頼った自分が浅はかだった。事件の解決に繋がると言って尋ねてきた男を慎重に見極め、判断すべきだった。とはいえ疎かった神話について知りたかったのも事実であることに変わりはない。
入り口の扉近くに備えられた本棚に収まっているのは、今や軍事行動にまつわる書物だけではない。ヘイズは装丁のしっかりした厚めの本を取り出し、付箋をしていた部分を開く。「白紙郷」事件が終わってから集めたうちの一冊は、すっかり手に馴染んでいた。エティハと関わることがなければ、自分は神話に興味を持ちはしなかっただろう。いつまでもあの不可思議な話を、作り物と切り捨てていたに違いない。
イホノ湖にまつわる物語が記されているページを、ヘイズは読み込んでいく。神話における誕生の経緯からそこに住むとされる神について、事細かに書かれている。今回の事件も、ライニア神話に関するものだろうか。
首謀者であるトープについては、警察を通して情報が入ってきている。このごろイホノ湖で人々を集めて不審な動きをしており、通報が増えていたという。さらにビラ配りの認められていない場所で、神話信仰にまつわるチラシを頒布していたとも聞いた。今のところは大きな影響が出ていないものの、この国の主流であるホロン教の関係者からは不安の声が上がっている。今まで保たれてきた宗教の安定が壊れるのではないかと。
「この国の神話も、厄介な扱いを受けているな」
誰もいない室内で、ヘイズは呟く。窓のカーテンは閉ざされ、夕方を過ぎて冷たくなってきた外の風にただ揺れている。今の状況が長引けば、国は再び危機に陥るだろう。今回は宗教にも絡みそうで、より複雑な事態になりかねない。壁の時計を見やり、約束の時間が近付いていると分かって資料を元の場所に戻す。そして上層部の人々が控える部屋へ移り、臆せず訴えた。
「トープにまつわる事件の捜査協力に、我々も加わるべきではないかと存じ上げます」
国の安全を思っての言葉も、緩い弧を描いた長机に並んで座る者たちは渋い顔で聞くだけだった。揃った制服を見に着ける彼らは、皆が皆同じような表情をしている。こちらの意見を真っ当に受け入れる気はなさそうだ。案の定、真ん中にいた人物が気だるげな声で告げた。
「何、貴殿がさほど気にする必要はない。トープは例の宣言をしたものの、目立った動きは起こしていない。加えて『白紙郷』とは異なる、あくまで個人での活動だ。大事を起こす可能性は低いとも言えないかね?」
「……斯様に楽観しておられては、有事の際に対処が遅れることも考えられます」
込み上げる怒りを抑え、ヘイズは唸るように告げる。何かあってからでは取り返しが付かなくなるのに、上の人間は動く気がないようだ。
「しばらくは警察に任せておけ。彼らは一日中イホノ湖を交代で監視していて、変化が起きても迅速な対処が出来る。加えて軍が過剰に戦力を投入しては、問題にもなるだろう?」
確かに軍としては、軍事費や戦力の余剰損失を防ぎたい思いは強いかもしれない。だが削るべきでない部分を削っては、軍の最も大事な目的を果たせなくなるのではないか。もちろんヘイズとて、無駄な戦いはしたくない。そのため、本当に必要となる時期を見極めたいのだ。ただ見張るだけに武器を使うつもりもない。
湖に何か変化はあったかヘイズは尋ねたが、警察に聞くよう突っぱねられた。責任感の薄そうな上層部のもとを離れ、部屋へ戻る廊下を進む。こうなったら自分が動くしかない。警察の手に追い切れなくなった時に動くのは、最終的に軍なのだから。
翌朝、あらかじめ頼んでいた警察による報告をヘイズは聞いた。今のところイホノ湖に異常はなく、周辺の人も見当たらないようだ。だが湖以外の場所で、何かが起きていないとも限らない。既に警察が突き止めたトープの家周辺とイホノ湖に、自らの組織する少数部隊を置くことをヘイズは決定した。あくまで偵察と緊急時の対処を行うためだと、部下たちにはしっかりと言い付ける。
そして夕方、部隊から早速報告があった。湖の敷地内に侵入した少年が、トープに捕らえられたらしい。撮影された写真には、浅黒い肌に赤い髪を持つ十代前半らしき男が腕を掴まれている様が映っている。顔立ちからして、恐らく東方の出身だろう。
イホノ湖はトープの魔術によって侵入が阻まれており、政府も近寄らないよう指示を出していたはずだ。それなのに写真の少年は、なぜ無謀な行いをしたのだろう。彼の無事を確認したいが、下手に動けば上層部に睨まれかねないことが歯痒い。やはり警察に託すしかないのか、ヘイズは考えかけて首を振る。自分でやろうとしたのを今になって撤回すれば、部下からの信用にも関わる。
連絡はトープの自宅を見張っていた隊からも届いた。トープは少年を家へ連れて行き、それ以降は外で見た変化はないという。少年を救いたい思いは、もちろんヘイズも持っている。しかし首謀者を刺激しないためにも、今は様子を見ていた方が良いだろう。引き続きの監視を部隊長に求めた時だった。報告のために部下がそばに控えていた扉が、勢いよく開かれる。先にいた者が戸に後頭部をぶつけそうになったことも気にせず、新たな人物は息を切らして告げる。
「脅迫が届きました。恐らく、捕らえられた少年の通う学校宛てでしょう」
サーレイ中等学校が複製して送ってきたという文面を、ヘイズは凝視する。通学している少年は人質にした。もし誰かがイホノ湖へ来ようものなら、彼を手に掛ける。危機感を煽る内容を受け、ヘイズはすかさず宛先の学校へ電話を掛ける。生徒の安全には気を付けること、イホノ湖には決して立ち入らないことを生徒たちへ指導するよう、自分でも険しいと分かる声で求めた。無論教師たちも、警戒を怠ってはいけないだろう。
机上の固定電話に受話器を置き、ヘイズは急に両肩が重くなるのを覚えた。一日でここまで動くとは思わなかったので、疲れているのかもしれない。果たして誰も傷付かずに、事件が収束するだろうか。部下の去った扉を見つめて椅子に深く腰掛けると、溜息が自然と口から漏れた。