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ライニア乱記 神住む湖 序章 鳴らない横笛

 夜が明けたばかりのほの暗い湖に、鳥の声が高く響き渡る。わずかに朝日を受ける水面は静かに揺れ、白い輝きを放つ。この湖を最後に訪ねたのは、自らが生まれた民族のために「野蛮人」の神話に頼ろうとした時だったか。横笛を固く持ちながら、アーウィンは視線を対岸の祠に移した。四月に入ったばかりの今日も、指先がひどく冷える。
 今よりさらに日が昇れば、ここを離れなければならない。何せアーウィンは、追われている身だ。このライニアを変えるべく、神話を実現しようとした組織「白紙郷はくしごう」に接触したものの、企みは失敗した。全てを消し去って思い通りの世界にする試みは潰え、組織の一員として軍や警察は今も自分を狙ってきている。同時に逃走した「仲間」たちのことは、一切気にならない。「野蛮人」の血が入っている者など、アーウィンにとっては野垂れ死のうが構わなかった。
 鳥の鳴き声が聞こえなくなり、アーウィンは楽器を構える。口元の穴に息を吹き込み、音を出そうとする。命にも等しいこの笛に、物心ついたころから親しんできた。だがいくら息を入れても、掠れた空気の音しかしない。怪訝に思っていったん笛を顔から離して眺める。黒い木で出来たそれに、傷は見当たらない。一度首を捻り、アーウィンは再び演奏を始めようとした。やはり、何も鳴らない。息が吹き口から管の中に当たっているのは、はっきり分かるというのに。
 数日前までは、問題なく曲を奏でられていたはずだ。不可解な事象への対応を諦め、アーウィンは足元に置いていた大型の鞄を肩に掛ける。振り向きざまに再び祠が見え、胸に何かが兆しそうになったのを抑える。自分が「野蛮人」の神話に頼ろうとしたことは、もう忘れるべきだ。さもなければ同郷の仲間に何を言われるか。――もう自民族の多くが「故国奪還ここくだっかん」を諦めていることは、思い出したくもないが。
 木々の生い茂る中を抜け、やがて水面は見えなくなった。場所を示す看板のそばで再び笛を吹いてみる。今度は滞りなく、馴染みの音色が聞こえた。指を素早く動かし、細かい音符を並べる。楽器が壊れているのでなければ、場所に問題があるのか。畔へ戻って試すと、またも笛は音を出さなかった。
 溜息をつき、アーウィンは楽器を鞄に仕舞う。異常はこのイホノ湖にのみ起こっているのだろうか。擦り切れた巻頭衣から伸びる脚が、何気なく湖の周囲を回るように動く。遠くにあったと思っていた石造りの祠も、気付けば目の前に迫っていた。恨みの力で消されたものを完全に復元する物体――「虹筆こうひつ」が収まっていると伝えられるそれは、扉が元通りに閉ざされている。かつて自分がしたように、アーウィンは広い面を向けた二つの石板を動かす。そして中に手を入れかけて止めた。ライニア神話による「改革」は頓挫した。もう頼るまいと決めたではないか。
 鳥は姿こそ見えないが美しくさえずり、周りの自然にも変わった点は見受けられない。自分以外が持つ笛も鳴らなくなってしまっているのか、他の影響はないのか。前に属していた組織の拠点は、魔術や魔法が使えなくなっていた。そうした効果を発揮する要石かなめいしを、周囲に隠していたからだ。団長の思惑をふと思い出し、同時に先月辺りに出会った少女の姿が脳裏に浮かぶ。元の日常を求めた彼女と同じ事態になっているのか、考えるも違うと結論付ける。自分はただ、音楽を奏でようとしただけだ。別に民族で伝わっている魔法を使おうなど、今ここでは思っていない。
 水面に反射する光が眩しく届く中、アーウィンは足を大きく動かした。今日は平日だが、万一観光客が来ることも考えて早めに姿をくらまさなければならない。そうして周辺の森を抜けようとして、道行く先に不穏な人影を捉えた。唾が口内を満たし、アーウィンは立ち尽くす。
 本当なら、相手など無視して通り過ぎれば良かった。だが向かってくる人物の気迫が、こちらをじっと威圧してくる。下にかけて暗くなっていく紫色の髪は、相変わらず膝下まで伸ばしたままだ。くるぶしまですっぽり覆う丈が長いズボンの腰には、灰色の大きな布をざっくりと巻いている。そして左側に刀を腰と布との間に挟むようにし、いつでも抜けるようにしている。彼女がこの国を滅んで良いなどと言った恐ろしさを、アーウィンは知っている。
「追われているのに人の多いこの辺りを歩いているのも愚か、そもそも素直に身柄を差し出さない事も愚か。貴方、まだミュスだけの世界を望んでいるの?」
 いつの間にか接近していた女――シランは、前と同じように人を愚かだと断じてくる。「野蛮人」に名付けられた自民族を指す呼称も相まって、アーウィンには苛立ちが募る。こちらが怒りを覚えると分かっていて言っているような心地が、不快でならない。
「俺たちは誇り高き『アンフィオ』だ。最後まで願いは捨てない。俺たちの国を取り戻すことを、諦めて堪るか」
「叶う訳がないでしょう」
 あっさりとシランは吐き捨てる。他の民族に迎合して純粋な数を減らしつつある先住民族など、自然に滅べば良いとも告げて。白い肌を備えた拳の片方を握り、アーウィンは斜め前の女を睨み付ける。
「俺たちは確実に数を減らしているんだぞ。そんな貴重な存在を、本当に滅んで良いとでも思っているのか?」
「ええ、構わないわ」
 思えばこの女には、何を言っても無駄だった。きっと世界の滅亡をも心の奥底で願っているに違いない。そして自らが死ぬことも厭わないようであった。だが彼女が全てを滅ぼしたいのか問うても、否定が返ってきた。
「私が動かなくても、世界は勝手に滅んでいくでしょう。……師匠と同じ思いを抱いている事が、癪ではあるけれども。ミュスもその成り行きに任せなさい」
 握った拳を、後ろへ乱暴に振る。今まで動いてきたことを、ここで止めたくはない。諦め切れぬ気持ちを募らせていると、不意にシランの方から冷たい風が吹いてくるように感じた。わずかに顔を上げ、女から目を離したくとも出来ない。
 彼女は刀を抜き払っていた。刃の周囲には灰色がかった靄が、そしてシラン自身からも赤黒い光が漏れているように見える。あの武器を振るわれたら殺される。そう直感し、アーウィンは固まっていた身を奮い立たせた。女から身を翻し、意地で両足を前へ出し続け、ただ走ることへ執心する。そして背後から衝撃を受けて転んだ瞬間、悪い予感は正しかったのだと理解した。
 鞄の蓋がひとりでに開き、笛が飛び出して地面へ落ちる。その音を聞き付けると同時に、両腕へ痛みを覚える。衝撃も気にせずアーウィンは起き上がり、笛を急いで拾い上げる。素早く後ろを確認すると、脅威である女はいなくなっていた。冷たい汗が体中を伝い、緊迫した状況にいたのだと改めて感じ取る。深く息をついて吐き、アーウィンは笛を鞄へしっかり仕舞い込む。そして両脇に木が続く道を速足で進みだした。

 明日から新学期の授業が始まるが、レンは今までと変わらず喫茶店の手伝いをしていた。そろそろ昼ということも相まって、窓際に備えられた席も十数個の丸型テーブルも程なくして埋まりそうだ。あと半日すればまた同級生に会うのだと思い、急に溜息が出てきた。
 学級を同じくしているあの優等生と顔を合わせるのは、憂鬱だ。普段は大人しいのに、なぜか自分にはしつこく絡んでくる。挨拶はもちろん、休み時間にもリリとの時間を奪わんばかりに話し掛けてくる。むしろリリの方が彼を気に掛けているだろうに、向こうは気付く様子もない。
 母に頼まれて角の席へ食事を運んでいた時、客の到着を告げる扉の鈴がまたも鳴った。案内できるテーブルがあるか確認すべく店内を見回し、入り口の戸に目をやってレンは声を上げる。喜びが口から漏れそうになるのを咳で誤魔化し、配膳を終えてから新たな人物のもとへ向かう。
「いらっしゃいませ。えっと――あちらが空いておりますので、どうぞ」
 ここは大勢がいる前、たとえ相手が見知った顔でも丁寧に対応しなければならない。レンは他の客と変わらぬ態度でアーウィンを奥の二人用席へ案内した。そして注文を受けると厨房にいる両親のもとへ素早く向かい、知人と話して良いか許可を求める。難なく受け入れられると、レンは頼まれた紅茶をアーウィンに渡してから身に付けていたエプロンを外し、彼の向かいにある椅子へ腰掛けた。
「久しぶりですね。でもこのお店に来ていて大丈夫なんですか?」
 正面にいる相手が軍に追われていると、レンは理解している。それでも親しげに接しているのは、一度同じ旅路を歩んだ者を無碍に扱いたくないからだ。裏切られようが、彼を頼りにしていたことは変わらない。アーウィンもまた前に見せた厳しさを置いてきたかのように、柔らかい声色で話す。
「今日は君に話したいことが会って来たんだ。今朝、イホノ湖へ行ったんだが」
 壊れかけた日常を取り戻すために訪れた湖の話に、レンは背を伸ばす。あそこでよく笛を演奏していたアーウィンだったが、今日になってなぜか音が出なくなってしまったのだという。彼が旅先で吹いていた音色が蘇り、レンは出会った時以来の試奏を求める。渡された横笛は前と同じく、息の音を発するだけだった。横から常連客の笑いが聞こえ、レンの耳は熱を発する。
「レンちゃん、今から演奏家になるなんて無理だよ。ところでお客さん、あんたは見たところミュスみたいだが、あの魔法が使えるのかい? 何だったか、音楽魔法おんがくまほうだっけ?」
 客の問いにアーウィンは頷いてから、顔を暗くさせる。
「もう既に、民族のほとんどが使えなくなっている。他の文化に取り込まれて、元のそれを忘れているんだ。年代が経つごとに、どんどんひどくなっていく……」
 テーブルに置かれたカップから漂う湯気を眺め、レンは寂しさを思う。アーウィンの使う魔法は、貴重なものだったはずだ。それがなくなっていくなどもったいない。ぼうっとしているうちにカップは持ち上げられ、レンもつられてアーウィンと目が合う。自分の魔法はどうか小声で聞かれて、使えないままだと答える。
 この国を特殊な爆弾で消却していった「白紙郷」の騒ぎに関わる中で、レンは自らの持つ技の存在を知った。魔法が完全に使えないわけではないとは分かったのだから、落ち込むほどではない。それより気掛かりなのは、明日の学校だ。
「成績が不安なのか? 君、魔術が使えないから困っていたんだろう?」
 アーウィンの言葉にも一理あるが、レンは首を振る。脳内に現れる姿を打ち消し、レンは肩を落とす。
「わたしの同級生に、勉強も運動も得意で魔術も使いこなせる子がいるんですけど――」

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