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蒐集家、怨恨を抱かれる 第二章 十、「悪魔」の一撃
十六時を回った「七分咲き」では、夜営業に向けた準備が進んでいた。昨夜に「蓬莱継承会」を止めに行ったので疲れていないか、苫小牧が気にしてくれるが椛は首を振る。
「なんとかなってよかったですよ! 白神くんはちゃんと叱らなきゃいけないけど」
「富岡さんは本当に、『早二野』としての活動が好きなのね。蒐集家を助けている私としても嬉しいわ」
「苫小牧さんのような人がいてくれて、あたしも心強いです!」
流しの前に並んで立ち、洗浄したばかりの食器や調理道具を拭いていると、自分と女将が共に誰かを助けていることが誇らしくなってくる。だが全員が自分たちを認めてくれてはいないと思い出して、椛は乾いた食器をそばの水切りにそっと入れた。
「あたしは『偽善家』なんてひどいこと言われていて。それに真木ちゃんが苫小牧さんのこと、あんまり好きじゃないみたいだけど」
「貴方のことならともかく、私なら疑われても仕方がないわ。皆に優しくありたいと思っていたら、ああなってしまったの」
こちらも手を止めてしまった女将が、不意に椛を見る。長い睫毛の下にある目が、どこか悲しげだった。
「富岡さんも、優しい人になりたいの?」
「あたしは、困った人を助けたくて――」
「でも貴方もやりたいこと全ては出来ないなんて、これまでの経験で分かったんじゃない?」
椛にライニアのことが浮かんでいるうちに、苫小牧がまた記憶に残っている人を挙げる。
「さすがの『天使』さんも、身の回りの人全てを助けた訳ではない筈よ。そんなの、体がいくつあっても足りないわ。あと、富岡さんを助けたのが偶然だった――つまりいつもからあんなことをしていなかったっていうのも、考えたことがある?」
首を振ってから、椛は頭の中を忙しく働かせる。もし「天使」が思ったような人でなかったとしたら、自分が今まで動いてきたのは何だったのだろう。あの姿を追い掛けて、結局疲れてしまうだけになるのか。声さえ発せられない椛へ、布巾を洗い終えた苫小牧が伝える。
「無理をしなくて良いのよ。何でも貴方だけで抱え込む必要はないわ。他の誰かが、貴方に代わって助けてくれることもあるかもしれない。――端さんも、それを言いたかったんじゃないかしら」
定番の品を作るべく奥の部屋にある冷蔵庫へ向かった苫小牧に置いていかれたまま、椛はその場を離れない。治は自分を手伝いたかったのか。だったらそれを正直に言ってくれれば良いのに。もう少し言い方を変えてくれたら、雑貨屋で一人泣くことはなかったはずだ。
彼には他の仲間ともども、この後会うことになっている。さて何を言おうか考え始めた時、スマートフォンを持った苫小牧が慌てて部屋へ入ってきた。彼女の知り合いという人からの連絡で、「蓬莱継承会」主催の展覧会が中止になったと珍しく焦った様子で教えてきた。
開店して間もなくに「早二野」が全員集まり、早速苫小牧の伝えた緊急事態に真木が食い付いた。椛の隣でテーブル上の温かい緑茶を睨み、展覧会中止の報が本当か疑っている。
「しかし嘘だとしても、なぜそれを伝えに……? さては大森さんが――」
「そういえば昨日、大森さんっていたっけ?」
さらに横にいた治の問いに、真木が首を振る。大森は単独で動くことが多く、あまり他の構成員と蒐集に出向く姿は見掛けていない。
「その単独行動も怪しいです。前に聞きましたが、大森さんは独自に施設を作ろうとしているようです。構成員の中にも彼を疑っている人がいて……」
さらに続けようとした真木を、背後で開いた戸の音が制した。「早二野」の皆に視線を向けられても、入店した男は目を合わせようともせず、黒づくめの装いで姿勢をまっすぐ伸ばしたまま最奥の一席に腰掛けた。角額の下にある眉は濃く、全体的に小さい目がこちらを見てもいないのに威圧感を放っている。彼が低い声で苫小牧へ注文をした後、恐れも知らないように真木が話し掛けた。
「その声は、松村進さんですね?」
本部と倉庫を行き来する際に手を貸してくれた人か、真木は男へ確かめる。彼はすぐに認めて、公への奉仕を忘れていなかったかと真木へ聞いてきた。難しそうなその問いに、友は迷いなく肯定した。
「わたしたちが動かなければ、この先の文化が危ぶまれると思ってやってきました。先ほど展覧会が中止になったと聞いたのですが、松村さんは他に『蓬莱継承会』で何かあったか、知っていますか?」
一瞬だけ怪訝に目を動かした松村に、声が出そうになるのを椛は堪えた。何をしていなくとも睨んでいるような顔つきが恐ろしい。そんな椛の感情とは引き換えに、松村は淡々と話した。
「構成員の脱退が相次いでいる。皆、香口に見切りを付けたようだ。……そちらが『早二野』か?」
団体の名が出てきて、椛は反射的に立ち上がった。これから何を言ってくるか分からないが、一応挨拶はしておきたい。仲間たちの後ろを過ぎ、椛はそっと客人へ近寄ろうとした。だが椅子一つ分空いた所まで来た時、眼前に飛び込んだ拳に思わず跳んで退いた。もう片方の手に渡されたコップを持ち、顔を前に向けていた松村が椛の小さな叫びを聞いて目を丸くする。その右手が人の方まで伸びていたことを、彼は今になって初めて気付いたようだった。
「失礼した。どうも僕は、自然に手が出てしまう性質のようでね。おかげで都内の本部には来るなと言われた。『蓬莱継承会』でやってきたことといえば、地元近辺での蒐集が中心だ」
「ではなぜ大森さんの件では、私に力を貸したのですか?」
元の席に戻った椛と代わるように、今度は真木が松村の方へ身を乗り出す。差し出された小鉢の料理に手も付けず、彼は唸るような声で語った。
「僕は大森兼良の行いを認められなかった。地域のためなどと彼は言っているが、どうも受け入れ難い。カレガロのことは聞いているか?」
「前に大森から、存在だけな。あいつも『楽土会』に似たことを考えていたのか」
最も松村に近い側の席にいる白神が答えると共に呟き、それまで遠目に客を観察していた治もここで口を開いた。
「大森さんの目的を、あなたは知っていますか?」
「残念ながらまだだ。奴は巧妙に隠している。だが彼は以前、カレガロに『蓬莱継承会』が当初予定していた博物館の計画を誘致していた。それと関係があるとは思っているな」
どこからかスマートフォンを取り出していた松村が、資料を送ったとだけ伝える。真っ先に自らの端末を見た白神が、自分たちにも届いていないか聞いてきた。椛も来たものを見ようとしたが、どのようにしたらよいのか分からなかった。結局、白神の画面を覗き込んで済ませる。
周りに所々青い部分があるのは海で、これはカレガロという国と近辺の地図らしい。カレガロ自体は小さな国で、一点だけ赤いピンのマークが立っている場所が博物館の候補地だった。
「松村さんだっけ? あたしたちがここにいるのに、わざわざそうやって送ってくれなくても……」
「殴られても良いのか?」
彼には接近するだけで殴られてしまうのか。先ほどされかけた仕打ちを思い、椛はすかさず首を大きく何度も横へ振った。小さな震えが止まらないのは、やはり松村が怖いからか。そんな恐怖など知ったことはないように、黒い服の男は話す。
「大森とカレガロの縁は深い。博物館の候補地に挙げていた場所からも近いパクエラという小さな町で、彼は市長をしていた。財政難を解決しようとしたが、問題が起きて辞任に追い込まれたそうだな」
大森がどんな顔をしていたか、椛は思い出したくとも難しい。実は偉かったという人の顔をもっとよく見ておけば良かったと後悔する横で、真木が松村と同じく正面を向いて何か考え込んでいる。
「あなたは大森を探って、いずれは彼を国蒐構へ突き出すつもりですか?」
「そうしたいところだが、それだけで済む話ではない」
再び尋ねた治に、松村が聞き取りづらく返す。大森も気掛かりだが、世界には彼によって流出の憂き目に遭った品が多数残っている。事態を全て解決させなければ、この国のためにはならないと。真木が懸念しているように、大森の行いは文化財及び国の危機に繋がるのだから。
「ところで奥にいるのが『偽善家』か?」
急に通り名を呼ばれ、嫌いなその名称への反発よりも返事が先に口を突く。恐る恐る顔を松村の方へ向けていく椛の呼吸は、次第に浅くなっていった。
「君が『偽善家』と呼ばれているようなことをやっているのは、己が満足したいからか?」
茶色がかった瞳から放たれる眼差しがひどく厳めしい。下手に答えれば一発受けてしまいそうだ。まともに口へ入ってこない酸素を吸い込み、相手へ聞こえているか分からない声を出す。
「あたしは、助けてくれた『天使』に憧れているんです。だから困った人をどうにかしたくて……」
「それも結局は、己の願いを叶えたいだけだ。人間は公に生きているのだから、公のためになる事をすべきだ」
その公が何かといえば、国や社会、ひいては人のいる前全般のことらしい。松村は常にそれを意識し、他の者にもそうあるよう、かつては教師として促した。
「公に恥じない者になるために、学ぶ事が大事なのだ。……それをあの時にも分かってほしかった」
松村は食事に一切箸を付けず、しばらく俯いて時間を経過させる。ここでうっかり話し掛けるのは良くないと椛は思っていたが、何も考えていないような白神が口を開いた。
「富岡はいつも、人のためを思って動いている。『早二野』の活動が、品を集めるだけのほかの団体から見れば奇妙なのもそのためだ。だからあいつも、公のためになっているってことでいいんじゃないのか?」
「それにはわたしも賛成です。依頼をこなしている時は、ただ持ち主のことを考えてぶつぶつ言っていますから」
真木も加わって、リーダーのことを守ってくれている。自分は「偽善家」呼びに憤慨していること以外、評価など気にしていないのでは。そう真木が言い終えた直後、松村の瞳が再びこちらを射抜いた。今度は目元に力が籠もって、しっかりと睨んでいるようだ。何か話したいのに頭が真っ白で、口をぱくぱくさせることしか出来ない。黙っていては悪い、だが言葉が出てこないと脳内でぐるぐる回っているうちに、今までより少し強張りの抜けた声がした。
「せめて『偽善家』と呼ばれないように心掛けろ。そうすれば、君の事を真に分かってくれる者も出るはずだ」
いつも言い返しているが聞いてもらえた気がしないと訴えるのはやめにした。ただ本当にその日が来ることを願い、飲み物を服した男をじっと見る。ここで彼が誰なのか今更気になり、椛は真木へそっと尋ねた。
「簡単に言うと、そうね……。『蓬莱継承会』で『悪魔』と呼ばれている人よ」
出てきた単語に店全体へ響かん驚き声が漏れ、椛は慌てて周囲を見ては両手で口を塞いだ。しかし遠い席の松村に、怒っている様子は見られなかった。小鉢の中をつまんでいた箸を止め、ぼんやりと上を見る。
「別に『悪魔』でも構わないさ。生徒たちにもそう見えただろう。――あれも良い事とは思っていないが、抑止力は必要だ。教師がぬるいと思われては、生徒も反抗の機会を伺うだけだ」
抑止力や何やら、彼は何を話しているのだろう。さらに聞こうとしてそっと立ち上がりかけた身を、治が手を伸ばして止めてきた。
「自分勝手だって、あの人に怒られるよ。どうやら周りを気にしないで自分を優先する人が、一番嫌いみたい」
囁くように言われて椛は思い直し、元の席に大人しく座る。下手に動けない威圧感に体が竦み、縮こまってまだ残っていたコップの中身を口にする。確かりんごジュースが入っていたはずだが、その匂いも味も全くしなかった。