ライニア乱記 神住む湖 第一章 迫る異変 四、再び目覚める魔法
新学期が始まって十日を過ぎたころ、レンはいつもと変わらない時刻に起床した。遅刻してはかっこ悪いからと、準備には気を抜かない。身支度を整えて朝食を取るべく入った居間で、付けられていたテレビの報道が目へ飛び込んで呆気に取られた。画面には青い湖の映像に知らない男の声が重ねられている。字幕にはトープとある名前の人物は、よく通りそうな高い声で簡単には理解し難いことを口走っていた。イホノ湖は占拠した、これから壮大な計画を実行させると。
「『白紙郷』に続いて、また物騒ね。レンも気を付けなさい?」
「大丈夫。そもそもイホノ湖、学校からも家からも遠いでしょう? そうそう行かないって」
テーブルに食事を並べる母の心配をはねのけ、レンは父の向かいに座る。わざわざ胡散臭いものに近寄るほど、自分は馬鹿ではない。それなのに胸騒ぎを覚えるのはなぜなのか。自分には縁遠い事件のことなど気にせず、かっこよく受け流せば良いだろうに。
家を出てすぐ、青々と葉を付けた月桂樹の鉢が目に入る。昔にリリの家から貰ったそれは、一向に花を咲かせない。今日も蕾さえ見えないことに息をつき、レンは近くの集合住宅へ友を迎えに行く。普段は自分が来るまでに支度を終えているリリだが、今日はやたら手間取っていると入り口に備えられた通話機越しに彼女の母から言われた。どうやらイホノ湖とトープの事件を聞いて以来、動揺しているらしい。
「困っているようなら、手伝いましょうか?」
『いいえ、そろそろ来るんじゃないかしら。ごめんね、待たせちゃって』
そう言われてすぐ、お人好しの出たことをレンは恥じる。リリだって子どもではないだろうに、なぜ手を貸そうとなどしたのか。
やっと姿を見せたリリと学校へ向かい、騒がしい教室に入り込む。隅の席で手を振るカルマへ適当に応じ、レンは生徒たちの話を盗み聞く。やはり今朝の報道で持ち切りだ。トープは何者なのか、壮大な計画とは何かといった疑問が立て続けに発されている。そして最初の授業を教えようとした教師も、イホノ湖へ行かないように忠告してきた。
昼食前に行われたのが、レンの苦手とする魔術実技の授業だった。どれくらい魔術を扱えるかで教室が分かれており、レンは最も下の部類にいた。リリは中級でカルマは上級と分かれ、この部屋にいる生徒の数も少ない。リリの魔法は判明していないが、カルマは「強化」魔法が使えるのだったか。対して自分は、基本の基本を改めて教わっている。
春休み中は「白紙郷」に対抗すべく「錬成」魔術も扱えたのだが、日常に戻った今は何も出来ない。周りの生徒も技量は低いとはいえ、手のひらより大きいものさえ無から作り出せるというのに。
「作りたいものを想像するんだ。正確な形、大きさ、出来たら手触りまで、細かく思い浮かべてごらん。最初から諦めたら良くない」
正面に向き合う教師の助言は、これまでに幾度となく聞いてきた。同じ内容の繰り返しで、うんざりしている。渡された紙に描かれた立方体を見つめ、レンは錬成できるよう心の中で念じる。本当は半ば諦めているのを、面にも出さない。
そうしてどのくらい経っただろうか。教師が他の生徒を見に動いてしばらくしてから、手のひらの上が光っていることにレンは気付いた。隣の生徒が驚いて叫び、教師が慌てて駆け付ける。教室中がざわつき、皆が作業を止めてレンへ視線を集める。
手よりも一回り大きな箱が、次第に形を成していく。応援の言葉も耳に入れず、八つの角が時間を掛けて尖っていくのをじっと待つ。だが完成を迎える前に、箱は跡形もなく消えてしまった。途端に落胆が室内に満ち、生徒たちは教材を片付けようとする。ただ一人、正面に移っていた教師が両拳を握って励ます。
「あそこまで行けるようになったんだ。また出来るさ、もう一回やってみよう!」
「先生、もうすぐ授業終わります」
一人の生徒が言い終えると同時に、授業の終了を告げるチャイムが鳴る。教師は笑みを浮かべたまま、その場を動かず固まっていた。
「まぁ、本当に出来るかなって期待したけど、さすがに厳しかったかな。まさか学校で魔術が使えるようになるなんて思わなかった」
カフェテリアで円形の椅子に並んで座り、レンはリリに先ほどのことを明かした。昼食の手も進まず、完成しかけた立方体に思いを巡らせる。自分の魔術は、守りたい日常が脅かされた時に発動されるものだと見做していた。それが「非常」魔法の特性であるはずだったが、もしまた使えるようになっているとしたら。
「非日常、起きているのかな?」
リリも小さなパンを手に取ったまま、口へは持っていかず楽しげな声を出す。その目もいくらか煌いているような気がして、レンはそっと彼女に背を向ける。非日常と聞いて浮かんだのが、イホノ湖の件だった。湖が個人に占拠されるなど、普通ならあり得ない。そもそも何のために、トープはそのようなことをしているのか。だが考えていたところで、自分には関係ないだろうに。
考え事は迫ってきた足音に遮られる。今日は来ないと思っていた男が、空いていた隣に腰掛けてくる。
「レンさん、魔術使えるようになりかけたんだって? もう噂になってるよ」
これからどんどん使いこなせるようになると告げるカルマの言葉も、なぜか嬉しくない。テストのことでも部活でも彼には何かとつけて褒められてきたので、ありがたみが減ってしまったか。それとも急に魔術を行使できるようになったことが引っ掛かっているからか。
「しかしあの事件も、やっぱり今まで変に思っていたことと関係があるのかなぁ。人が集まっているって目撃もまたあったみたいだし」
カルマが何か食べているのを聞きながらレンによぎったのは、アーウィンの笛にまつわることだった。音が鳴らない状況は、あれから続いているのだろうか。もし現在の不穏な事態が続いたら。日常が崩れては堪らない。
「レンさん、ちゃんとご飯食べてる?」
カルマに指摘されて、レンは膝の上を見下ろす。サンドイッチは弁当箱に収まったまま、まだ一つしか消化されていない。リリはすっかり食べ終えて、自分たちのいる場と同じ形をした椅子の並ぶ先をぼうっと眺めている。壁に掛かった時計を見ると、残りを全て食べ切れるか怪しくなってきた。とりあえず食べられる分はどうにかしようと、急いで昼食に手を伸ばす。
「やっぱりイホノ湖が気になるし、遠くから様子を見に行かない? リリもどう?」
珍しくカルマから気に掛けられたリリが、食事の入っていた袋を落とした。一方でレンは呆れを隠せない。事件の起きている場所へ赴くなど、どうかしている。
「わたしは行かない。部活とかお店があるって、いつも言っているでしょう。ほらリリも、何かあったら危ないって」
名前を呼ばれてリリが我に返り、床にあった袋を拾い上げる。それでもなかなかカルマへはっきりした答えを示さずにいたが、やがて同行を断念した。
「二人とも駄目かぁ。危険に巻き込むつもりはなかったんだけど」
明るい声を出し、残っていた昼食をカルマは一気に片付ける。本当に落ち込んでいるか分からない彼を見もせず、レンは数個目のサンドイッチを掴んだ。
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