ライニア乱記 神住む湖 第一章 迫る異変 六、進む企て
早朝に降った雨でいくらか濡れている石畳の道を、レンは左右に目をやりながら歩く。やはり覚えのある教師たちの顔が、この道路に入ってから頻繁に見受けられる。彼らは距離を置いて歩道の脇に立ち、笑顔で生徒に挨拶をしている。だが彼らの目的が自分たちの監視にあることなど、レンは分かり切っていた。
「……あの馬鹿」
隣で歩くリリの耳に届かないようにレンは呟き、突き刺さんばかりに爪先で地面へ蹴りを入れる。ここ数日でカルマには、何度かイホノ湖へ行かないか誘われてきた。いつもそれを断っていたが、自分がどうこうよりも彼を止めるべきだったと今になって思う。冷や冷やしたものを感じながら何もしなかった身が情けなく、かっこ悪い。
昨日の夕方にイホノ湖畔を訪ねたカルマは捕まり、学校にも脅迫状が届いた。生徒たちが勝手な行動を取ってカルマに危険が及ばないよう、教師陣は通学路から見張りを始めている。優等生だと思っていた男のせいで、とんでもない迷惑をこうむった。おかげで人の目線が、ひどくしんどいように感じる。
「カルマくん、大丈夫かなぁ。なんでイホノ湖に行っちゃったんだろう、危ないところだったはずなのに」
「わたしにも分からない」
不安げなリリを横目で見、レンは呆れも込めて吐き捨てる。彼女の疑問ももっともだ。無事に戻ってきたら問い詰めてやろうと決めて、道の先にある学校へ大股で向かう。
教室の中でも、イホノ湖へ行かないよう教師には注意を受けた。周囲の町へ赴くことも自粛を求められる。色々とこちらの行動を制限する学校には、不満が強く浮かぶ。しかし従わなければカルマだけでなく、自分にも危険が及ぶかもしれない。着席した机の下で脚を軽くぶらつかせ、レンは前方で話す教師を静かに睨んでいた。
カルマがいないこと以外は特に問題もなく授業を終え、レンは喫茶店の手伝いに行った。木で出来たいくらか重い戸を開け、奥の席で母と話している客に気付く。
「アーウィンさん、あれからどうですか? 笛のこととか」
「今のところイホノ湖以外じゃ、普通に鳴っているな」
厨房で着替えてきたエプロンの紐を結び直し、レンは母と入れ替わるようにアーウィンの席へ向かう。テーブルの上には横笛が置かれ、傷もなさそうに見える。異常の原因は湖にあるのだろうか。自分が考えても何も出てこない一方で、アーウィンは信頼できそうな推測を口にしていた。
「もしかしたら湖の周りに、よそ者を邪魔する結界が張られているのかもしれない。来る人に邪魔されないためだろうな」
湯気の消えかけた紅茶のカップを持ち上げた客を、レンは見つめる。確かに彼の言う通り、事件を起こしているトープはイホノ湖を占拠したと宣い、カルマを救おうとする者へ寄せ付けないよう牽制している。だがトープと思しき人物が前に、人々を畔に集めていたのではなかったか。カルマの話と連日の報道を振り返り、改めて疑問が生まれる。
トープは人を排しているかと思えば、人を集めている。大勢の人間がいなければ出来ないようなことでもやるつもりなのか、それが彼の言う「壮大な計画」と関わりがあるのか。そしてトープは計画に加わらせる人を選んでいるのかもしれないと、レンにふとよぎる。座っているアーウィンを見下ろし、彼が少数民族として冷遇されてきたことが蘇る。
もしミュスであるというだけではじき出されているのなら。手に持つ陶器とも変わりそうにない白い肌を持つ男を前に、レンはそっと目を伏せる。
「……イホノ湖へ入れないこと、どう思います?」
「特に気にしていないさ。笛なら他の場所でいくらでも吹ける。……まぁ、引っ掛かることはあるけどな」
アーウィンは疑問へ軽く答え、横笛に息を吹き入れた。周りの客が時々身を乗り出して音色に聞き入る一方で、レンはその場に立ち尽くしていた。これから、一体何が起きるのだろう。取り戻せたと思った日常が、また壊れてしまうのか。現にカルマは学校に来ず、それだけで違和感が襲っている。先日に「錬成」魔術が使えるようになりかけた片手を持ち上げ、その手のひらをレンはじっと見つめた。
寝る前にカードで占うのは、いつもの日課だ。明日の運勢を前もって見ておかないと落ち着かない。すっかり日の暮れた後、セレストは寝間着のワンピース姿で机に広げたカードを交ぜていた。一つの山にまとめて三つに分け、また一つにすると決まった展開を広げていく。独自の世界観を示す絵が美しく描かれているこのカードは、セレストのお気に入りだ。裏の幾何学模様さえ、その細かさに惹き付けられる。
十字に置いた二枚の周りに四枚を囲むように配置し、さらに四枚を下から縦に並べる。出てきた絵柄の意味を読み解いてまとめるべく、セレストは机の引き出しから大きめのノートを取り出そうとして手を止めた。どうも自室の下が騒がしい。ばたばたした足音がしたかと思えば、くぐもった声もする。
物取りでも入っただろうか、セレストは警戒しつつ念のため武器になりそうなものを探した。先ほど書こうと思っていたものと同じ体裁のノートを数冊重ね、両手で持って上下へ振ってみる。一冊一冊が厚いのだから、まとめて振り下ろせば少しは相手の戦意を失わせることが出来るだろう。
あくまで最後の手段だと思って用意していた「武器」は、やがて使う可能性が濃厚になってきた。階段を上る音が、やたら大きく響いている。家に住む誰も、あのように荒い仕草は取らないはずだ。扉のそばにある壁へ背を付け、呼吸を整えているうちにセレストは気付く。知らない者だけでない、親もここへ来ている。心臓が騒ぎ息の浅くなるような感覚――恐らく親が持っているものと同じだろう感情が、セレストの胸に渦巻いていた。今まで自分が何を思っていたのか、それも人の持つ強い不安に塗り潰される。
隣で扉が開けられ、セレストは人の入った方を向く。そして数冊まとめたノートを高く掲げると、有無を言わさず侵入者の頭上へ叩き付けた。呻き声に聞き覚えを感じ、ノートを横にずらして現れた姿に思わず叫ぶ。
「ごめんなさい、お父様! あなたが先に入ってくるなんて思ってもいませんでした!」
頭頂部をさする父は、痛そうにしながらも明るさを保ったまま笑っていた。
「いや、わたしが入る前に聞かなかったのが悪かったな。次から気を付けるよ。そうだ、セレストに会いたいっていうお客さんを紹介しようと思ってね」
父は私服を整え、廊下に留まったままだった客へ部屋に入るよう勧めた。その様に、セレストはまず違和感を抱く。自分の生まれながらにしてどうにもならない能力を知っている親が、むやみに人をここへ連れ込まないだろう。だが父を見ていると、彼がすっかり客に心を許しているようだと読み取れた。階段を上っている間は確かに不安が伝わってきたのにと、セレストは思い返す。
身長は自分より高いが、フュシャよりはいくらか低いような男だった。暗い金色の髪が短く揃えられ、薄い眉の下には切れ長で生気の乏しい瞳が下に向けられている。視線の先には腰のベルトから取り出された厚い本が、広い袖の裏に隠れていた。
この客人は信用できる。きっと素晴らしいものを見せてくれる。今渦巻いている心は自分のものか、いや父のものだとセレストは直感する。目の前にいる男と知り合いなのか問おうとして、聞き取りづらい低い声を耳が捉えた。
広げた本の中身を、男は読んでいるのだろうか。その内容にセレストは動かず聞き入る。従えば何も恐れることはない。ただ黙ってついて行き、本懐を果たせ。しばらくそう言われていることに何も覚えなかったが、急に思い立つ。この読み手は、音読している本を利用して自分を従わせるつもりではないだろうか。
呑み込まれつつある自分を、すぐにでもどうにかしたかった。「感応」能力を少しでも和らげたいと願っているのに、ここで引き寄せられていては悪化するばかりだ。手にいくらかざらついた紙の感触を認め、セレストは咄嗟に持っていたノートを男へ投げ付けた。他に武器となりそうなものはないか、再び引き出しを探ろうとして風に煽られた髪が顔に掛かる。机上のカードが宙を舞い、翻って床へ落ちる。閉じている窓とは反対の方から吹く風に、セレストは振り向いて言葉を失った。
灰色のうねった髪をたなびかせ、しかめ面をした姿が宙に浮いている。手に持つ長い杖が振られると、風がこちらへ強く吹き付けてきた。
「神話における天気の神・エイン様だ。雲の神という説もある」
いつの間にか男は、先ほど読んでいた本とは別のものを広げていた。その紙面から光が溢れ、彼の言った神とやらを呼び出したようだ。初めは戸惑っていたセレストだったが、不意に思い付いて啖呵を切る。
「部屋の中で天気の神様を呼ぶだなんて、おかしなことをするものね! ここで雨でも降らせるつもりなの?」
本を持つ男が顔を引きつらせたかと思えば、大声を張り上げた。
「そうやってまた……神話を愚弄するのか!」
叫びが終わると同時に、目を刺してくる光が部屋を照らし、鼓膜を破かんばかりの轟音が響いた。今のは雷か、ここにいるのは本物の神だというのか。怖気づいた隙を突かれ、セレストは片腕を客に掴まれていた。抵抗も虚しく引きずられ、部屋の外へ連れ出される。
「待て、娘をどこに――」
父の言葉が、再びの雷に遮られる。彼の驚いた叫びも遠くなり、男に引かれるがまま階段を下りる。母や他の使用人はどこで何をしているのか、全く姿を見せない。
玄関の戸が開けられると、夜の冷たさが寝間着を通してセレストの肌を刺した。外がこれほど寒いとは知らなかった。名乗らない男は薄い生地の靴を履いたセレストを連れ、黙って森の中を進んでいく。途中で人にすれ違いでもしたら、また彼らの影響を受けるだろう。これから襲いくる危険を思うと、セレストは見えなくなってくる自宅へすぐに帰りたいと強く願っていた。
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