ライニア乱記 神住む湖 第三章 ライニアの神 五、消失の先
神の消失は、その到来を待ち望んでいた人々に混乱を与えた。ある者は首を巡らしてどこに消えたのか探り、ある者は再び見せるよう怒号をぶつける。しばらく立ち尽くしていたトープが彼らへ向き直り、しどろもどろになりながら落ち着かせようとする。そしてイムトに改めての準備を求めた。
そうした騒ぎなど気に留めないように、シランがイホノを斬った刀を収める。そこにアーウィンが怪訝な表情で、今まで何をしていたのか問うてきた。
「トープの家に潜んでいたわ。破壊すべきものを探していて、時間が来そうだからここへ向かったの」
シランは地面に投げ捨てていた鞄から、本を数冊取り出す。これらはどれも、トープが「洗脳」魔法を用いるために使っていたものだという。
「本来は何もなくとも使えたはずの洗脳が、彼は本を通してでしか効果を発揮出来なくなっていた。ここにいる人間達も、あくまで操られているに過ぎないわ」
つまり人々は、本心から神を信じているわけではなかったのか。レンがホルスターに拳銃を仕舞いつつ聞いていると、ルネイが隣に移って推測を話した。トープは恐らく、魔法の鍛錬を積んでいなかったのではないかと。元となる価値観を持っている限り、魔法は使い続けられる。しかし長く使用していないでいると、上手く効果を発揮できなくなることがあるようだ。
「しかし補助の道具を使うまでということは、それほど必要とする機会がなかったのでしょうか……?」
「あなたの言う通りです、少年。ワタシは神話の研究に明け暮れ過ぎていた」
いくらか人々を静かにさせたトープが、疲れたように呟く。昔は目を見るだけで言うことを聞かせられたが、それも叶わなくなった。故に自らの魔法と特製の魔術で編んだ書が、どうしても必要になったのだ。まだ使うからとトープはシランの持つ本を一気に掴み、その弾みでページが開かれる。シランも取られるまいと手に力を込め、左右から引っ張られた書物はやがて破れた。
黙り込んでいた人々が、またもどよめく。本の損傷によって魔法にも綻びが生じたのか。レンが考える中、イムトが書を奪い合う二人の間に入ろうとする。そこに銃声が響き、彼の姿勢が大きく前に崩れた。イムトの背後に回り込んでいたフュシャが、拳銃に新たな銃弾を装填する。
「セレストを攫って苦しめた恨み、覚悟しろ! だいたいお前さんのことは、『白紙郷』のころから気に入らなかったんだよ!」
座り込むイムトのもとへ走り、フュシャは彼が腰に携えていた本を取り上げる。そして負傷で動く気力も失われている男の前で、迷いなくそれを何回にもわたって引き裂く。ほぼ全てのページがばらばらの紙片となるまで、フュシャは破り続けた。
「これで『召喚』魔法は使えない。神がまた呼び出されることもないだろう。なぁ?」
自慢げに話すフュシャに対し、イムトは傷を押さえて血に濡れた手を本へ伸ばそうとする。しかし彼が欲しかったものはフュシャから離れ、無数の紙吹雪となって風に乗る。
「神、を……」
掠れた声を漏らすかつての仲間に、大切な人を利用された女が武器を当てる。再びの発砲音がした直後、イムトは大きくのけぞって後ろへ倒れた。額に撃たれた痕を残す彼は、二度と動きだしそうになかった。
イムトの最期を眺めていたアーウィンが、要石を壊しに行くとして湖を出ていった。これ以上笛を吹けない事態を止めるつもりらしい。自分も手伝いに行こうかと思って、レンは眠るリリの隣にいたセレストに違和感を覚えた。いつの間にか起き上がっていた彼女だが、具合が良くなったようではない。何かに取り憑かれたように人々の方をじっと見つめている。それだけなのに、なぜ寒気がするのだろう。
フュシャが戻る前に声を掛けてみようか。レンはセレストへそっと近付いたが、彼女の口から不気味な笑いが漏れていることに足を止めた。周りも異常に気付いたか、皆が同じ方向へ顔を向ける。俯いていたセレストはやがて顔を上げ、引きつったような高笑いを空へ響かせた。狂いにも似た様に、フュシャさえ動けずにいる。このまま放っていけはいけないと分かりながら、レンの体は情けなく小刻みに震えるばかりだった。
やっと目に出来たと思ったものは、あっさり消えてしまった。あの時を待ち侘びていたのに、話を聞いてほしかったのに。神のいる貴重な時間を、もっと感じていたかった。次々と湧いてくる思いは、神を望んでいた人々のものだろうか。
眠りが遠ざかり、ぼんやりと喧騒を耳に入れていたセレストは、一筋涙を流していた。悔しい。あと少しで、願いには裏切られてしまった。トープが講演で語る話はどれも興味深く、素晴らしかった。彼なら奇跡を起こしてくれる、間違いなく信じていた。こんな形で終わってしまうとは、寂しいを通り越して何も考えられない。
普段ならそうした感情に吞み込まれてしまうセレストも、今はどこか遠くで見ているような感覚でいられた。これまでにない経験ながら面白い。ただ意思に沿わず共感させられていた人々の心が、どれも強いものだったと知る。
薄く目を開き、セレストはわずかに顔を傾ける。フュシャが何かをしている向こうに、初めて見る大勢の人間がいる。今まで家族と恋人しか会ってこなかったので、新鮮な光景であった。そして唯一顔を合わせられた人々には、何もかもやってもらってばかりだった。部屋の掃除から勉強の指導、昔は着替えや入浴でさえ。そこまで手を尽くしてくれていたのに、自分と来たら何も報いていないではないか。
ようやく気付いた。自分は、人の役に立ちたかったのだ。誰とも会えず、ただ生きているだけの人生がつらかった。何もしていない自分が、本当は恥ずかしかった。
この瞬間に自分が出来ることは何だろう。分かるのは、人々が神の降臨を待ち望んでいることだ。もう一度姿を見たい、救ってほしい。切実な願いが、セレストの胸を締め付けていた。
なら、自分がそれを叶えよう。そうすれば皆の役に立てる。ちょうどここにいる者から得た魔力も、しっかり溜まっている。熱を持つ体が勝手に起き上がり、気分はひどく高揚していた。笑い声が脳内にぼんやりと響く。それから誰に教わったはずもない神を呼ぶ言葉が、自然と口から出てきた。間もなく白い影が、徐々に人の形として捉えられるようになっていく。
これで自分の思いも果たせる。人々も喜んでくれるに違いない。味わったことのない喜びが、セレストの胸をいっぱいに満たしていた。