ライニア乱記 神住む湖 第一章 迫る異変 二、イムトの行き先
仲間とは思えない仲間と共に軍用車を飛び出して、どのくらい経っただろう。今日までどのように生き延びてきたか、全く記憶にない。さまよい始めて何度目かの日暮れが迫る中、イムトは地面に足を取られながら人気の乏しい道を歩いていた。ここがどこかも分からずにいたが、看板からイホノ湖が近いと分かる。何気なくそれに背を預け、腰に巻いていた革帯から固定していた本を取り出す。
表紙を開こうとした手が、薄汚れていると気付く。大事な本が穢されると思って、イムトは硬く拳を握った。この書物に縁のある神話を教えてくれた恩師は、国を変えようとして殺された。彼がいなくなってから、どう生きれば良いか分からない。今まで彼のようになりたくて動いてきた。その道しるべがなくなれば、何を頼りにすべきなのか。
そして尽くしてきたと思った人には、最後に突き放された。ただ彼を模倣しているとだけ認識され、覚えのない怒りを向けられた。瞼の裏が熱くなり、イムトは拳を振り下ろす。誰も自分を、分かってはくれないのか。
手を服でざっと拭いた後、本を裏から開くと挟まれていた紙を広げる。恩師も教えていた大学で書いた論文は、誰にも評価してもらえなかった。長い文面を忌々しく睨み、書物を脇に挟んで紙を両手で持つ。そして勢いよく破ろうとした時、湖を囲む森から聞こえる大勢の声にイムトは顔を上げた。咄嗟に後方を探り、何やら騒いでいる方へ走る。自分が軍に追われていることなど、微塵も気にならなかった。
水面が見えてきたところで、イムトは立ち止まる。祠の脇に、湖とは反対の方を向いて数十人の人々が並んで座っている。観光客とは思い難い集団は、前に立つ男が両腕を上げるなり大きな拍手を送った。
明るい灰色の髪を持つ長身の男は、いかにも怪しかった。鈍い色合いのサングラスを掛けており、目元は分かりにくい。丈の長い薄手のコートをはためかせ、彼は興奮する人々に両手を向けて制する。
「皆さん、長らくお待たせいたしました。今日もライニアのためになり得る素敵なお話を聞かせてあげましょう」
発言があってすぐ、人々が立て続けに男を「トープさん」と呼んだ。トープは口で弧を描き、小脇に抱えていた本を広げる。彼がすらすらと語りだしたのは、イムトにも馴染みのあるライニア神話の物語だった。今や多くの人間が架空の産物と見做しているはずの話に、この場にいる者たちは静かに耳を傾けている。頷きながら紙にペンで書いている者もおり、イムトは呆気に取られた。大学で学んでいたころには想像もしなかった光景が、遠い木の陰に立ち尽くすイムトの眼前に広がっていた。
なぜ彼らは、これほどまで神話に熱心なのだろう。消却を行っていた間も、対抗してきた者には神話を作り物だと切り捨てられてきた。もしここにいる人たちがかつての団長に同意していたら。浮かんだことを振り払い、イムトは話し続けるトープに目をやる。神話に詳しいと思われる彼もまた、何者なのだろう。
「それでは最後に、皆さんで祈りの言葉を唱えましょうか」
いつの間にか日は暮れ、トープの持つランタンが光っていた。もそもそと動く黒い影から、やがて一斉に聞き覚えのない言葉が轟いた。果たして彼らは何語を話しているのか。イムトが全く理解できないまま、謎の呪文は終わった。
大勢の影が立ち上がり、重い音を立てて歩きだす。慌ててイムトは、木の裏に生える高い草の裏にしゃがんだ。ざわつきはやがて収まり、後はランタンを持つ男が去るのを待つ。だが近付く足音が、一切の油断を許させない。
「おや、あなたも参加希望でしたか? 遠慮しなくて良いものを」
上から降ってきた声に、イムトはわずかに見上げるだけだった。ランタンの光にサングラスが透け、相手の目が若干赤いと分かる。警戒を崩さず、イムトは何者か問い掛ける。
「ワタシは伝道師をしている者です。この国にライニアの神々、そして神話を信仰してもらうべく、動いております」
「さっき話していた、よくわかんない言葉は何だ?」
「古代ライニア語の祈りですよ。昔はああして、皆がこの国の神を称えていました」
すらすらと話していたトープは、不意にイムトの持っていた論文の折り畳まれたものを掠め取った。イムトが奪い返す暇もなく、彼は紙を広げてランタンにかざす。
「この部分は、エティハ教授の書いていたものを参考にしましたね?」
また昔のように責められるのか。かつての糾弾が脳内に響き、イムトは論文を読み続ける男を睨む。
「あの方と、何かご縁があったのですか?」
こちらへ目もくれずに問う者へ頷き、イムトは自らがエティハの師事を受け、彼の組織した「白紙郷」にも入っていたと明かした。それへ特に関心を示したでもないようにトープは零す。
「あの人の研究は素晴らしいものでした。しかしやろうとしたことはいただけませんね。再現するなら消却神話ではなく、別の物語にすれば良かったものを。だいたい国を消してしまえば、神の居場所がなくなるではありませんか」
トープが論文を畳んでイムトに返す。口元を緩ませたまま、彼は言う。
「信仰する者がいなければ、神が悲しみます。それをあの方は心得ていなかったのでしょうか……」
案内された家は、居間から寝室に至るまでどこも薄暗かった。トープの私室だという部屋は大きな棚が目立ち、そこには魔術を行使できる道具やら得体の知れない薬品やらが整然と収まっていた。そしてそばにある机にも本が重ねられ、書きかけの文書が広げられている。
「そういえばあなたも神話を研究していたとおっしゃられていましたか、イムトさん。しかし論文集には載っていなかったのですから、さほど秀でた方ではないようですね」
「……あんた、学者か? 少なくともおれが通っていた大学では聞いたことがない名前だが」
机の隣にある本棚を探っていたトープは、扉辺りで立ったままでいるイムトへ渋い顔を向けた。
「学者ではありません、伝道師です。ワタシは神話を、実用的なものにしたいのです。ただ書物と睨めっこしているあなたがたとは違いまして」
どうも先ほどから、この男の言葉には腹が立つものがある。それでも湖から遠くないこの家屋へついて行ったのは、彼の神話研究に興味を持ったからだった。恩師とは着眼点が違うが、神話に縁のある同志として否応なく引き込まれていった。
「昔は多数の人が、この国の神話を信仰していました。外から一神教であるホロン教が入ってもなお、です。異なる宗教同士で何とか上手くやっていけた時代は、大戦後に終わってしまいました。無論理由は、神に選ばれた王家が落とされたからです」
神は嘆いているだろうと、トープはわずかに天井を仰いで息をつく。ここまで神話上の存在に思い入れを抱く者はいなかったと、イムトは顧みる。ややあってトープが手を叩き、サングラスの奥にある瞳を光らせたように見えた。たじろぐこちらも気にせず、伝道師はだんだんと早口になる。
「イホノ湖に神が住んでいることは、あなたもご存知でしょう。あの神を下ろして、人々にぜひ嘆きを聞き入れてもらいたい――! 思い知らせてやりたいのです――!」
自分と年の近い二十七歳だと言っていた男は、野心に燃えていた。その気迫に押されたか、イムトは知らず知らずのうちに腰へ備え付けていた本に触れる。神の姿をこの世に現す「召喚」魔法なら使えると、いつの間にか口走っていた。途端にトープは一飛びにイムトのもとへ向かい、視線を合わせてくる。
「でしたら、ぜひワタシに協力してくれませんか? 行き場にも困っていたのでしょう?」
ここへ着くまでの道中で喋り過ぎたことを、イムトは今になって悔やむ。果たしてこの怪しい人間について行って良いのだろうか。恩師を裏切ることにはならないか。
しかし今追い出されては、捜索している者たちに見つかる可能性も高くなる。匿ってもらうついでに、「白紙郷」で出来なかった活躍を行えたら。気付けばイムトの胸には熱が生まれ、首は縦に振られていた。