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ライニア乱記 神住む湖 第二章 平穏と騒動の狭間で 七、密かな脱出作戦

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 昨日はまず、部屋に唯一ある小窓から脱出しようとして失敗した。高い位置にあるそれは、カルマとセレストがどうやって協力しても届かなかった。それなら壁を壊そうと試みたが、傷一つ付かない。カルマ持ち前の「強化」魔法を用いて拳で打ってみても、期待した効果は現れなかった。
 セレストと出会った翌日の脱走計画は頓挫し、結局また一晩を越えることになった。椅子で座ったまま睡眠を取っていたこともあって、カルマはよく寝た気がしない。痛む首を回すと鈍い音が鳴り、不調をどうしても思い知らされた。
「カルマさん、具合はどう?」
 ベッドから身を起こしたセレストが、優しい声で問い掛けてくる。能力も相まって、こちらの具合を察していたのか。そこまでひどくはないと答えてから、セレストの方こそ大丈夫か尋ねた。薬を二日も飲んでいないのだから、そろそろ厳しくなってくるだろう。だが彼女は、まだまだ二日だから平気だろうと楽観的でいた。
 窓からは朝のぼんやりとした光が届いているが、一つしかないからかあまり恩恵を受けられた気がしない。外の空気を吸っていないこともあって、カルマは窮屈な気持ちが抜けなかった。無論、セレストといるのが嫌いなのではないが。
「もしずっと閉じ込められたままだったら、どうしよう……」
 カルマの零した不安に、セレストは何も反応しなかった。顔から表情は消え、こちらへ言い返そうともしない。そこに昨日との違いを感じ取り、彼女を短い間見つめた。昨日は自分がどんなに弱音を言っても、セレストは笑顔で励ましていた。
「大切な人に会いたいんでしょう? なら、ここでやめるなんて出来ないわ」
 何があっても諦めない姿は、レンにも似ていた。魔術が使えなくともひたむきな彼女のように、セレストは前を向いていつも笑顔でいた。それが一日でこれほど変わってしまうのか。やはり密閉された暮らしで心が疲れたのかと考えかけて、別の可能性がひらめく。
 彼女は「感応」能力によって、自分の心配を感じ取ってしまったのではないか。こちらの感情が伝わり、セレストにあった明るさが失われようとしている。ここで落ち込み続けていたら、彼女はより悲観的になりかねない。脱出する気力も失われてしまうかもしれない。
 外から差し出された朝食が終わり、カルマは食器の片付けられたテーブルの向かいに座るセレストへ掛ける言葉を考える。だがこちらの思考も、彼女にはお見通しなのではないか。かといって恐れていたらまた落ち込んでしまう。視線を泳がせていた先で、ちょうど窓の真下辺りにあった戸棚を捉えた。
 昨日は家財を動かしたら怪しまれると思って、手を付けていなかった。だがよく考えれば、テーブルやベッドならともかく使い道のなさそうな家具があるのは不自然だ。そこに何か仕掛けがあるとしたら。
 ぼうっとしているセレストの袖を軽くつまみ、戸棚を指差す。ややあって首を巡らせた彼女は、眉を下げたままこちらを見てきた。
「外に、出たいんですよね?」
 共に過ごす中で聞いた話を、カルマはしっかりと覚えていた。彼女が叶えたくとも出来ずにいる願いや、希望が果たされた後の未来図まで。
「自分の能力を少しでも和らげたいって、フュシャさんと旅がしたいって、言っていたじゃないですか。それをこんな息苦しい場所で放り出しちゃって良いんですか?」
 少しでも明るさを取り戻してもらうために、カルマは心を込める。発音の一つ一つにも思いを乗せて伝える。わずかに悪かったセレストの顔色が、いくらか赤みを帯びた。
「……そうね。ここで塞ぎ込んではいられないわね」
 ゆっくり立ち上がったセレストに、カルマも続く。廊下に気配がないと確認してから、二人して音を立てないよう戸棚を脇へ押し始めた。時に作業を止めて部屋の外を探り、少しずつ進めていく。そして裏に隠れていた壁に目立つひびを見つけた。「強化」魔法を使ってこれを破れないか。セレストの言葉に、カルマはすぐ返せずにいた。昨日も割れなかったのに、いくら隙を見つけたとして出来るのか。
 再びの悲観に襲われたカルマにつられて、セレストもまた顔を曇らせたように見えた。戸棚に置いていた手をだらりと下げ、その場に座り込んでいる。これはいけないと、カルマは気を取り直して頬を叩いた。自分がしっかりしなければ、彼女は能力に振り回されるがままとなってしまう。
 昨日は壁が無傷だったから厳しかったのであって、傷のある部分なら何とかなるだろう。その見解を伝えると、セレストの表情がぱっと輝いた。レンも自分の前ではこうして喜びを見せてくれても良いだろうに。
 セレストが扉のそばで外を探っている。それを任せてカルマは床からほど近い場所にあるひびを見下ろしてしゃがむと、深い呼吸をしながら右の拳に意識を向けた。血の流れや自らの取り込んだ酸素、無意識に持っている魔力が全てそこへ集まるような想像をする。拳は温かくなり、魔法の成功を確信して一気にひびへ打ち付けた。しかし目ぼしい感触はなく、逆に痛みが右手に広がる。
 素早く振る手を眺め、元の感覚に戻るのを待ってカルマは呼吸を整える。いつまでも出来ないと思っていては駄目だ。魔法は自分の心が大事だと、再三言い聞かされてきた。それを念頭に置いてもう一度拳を振るおうとした時、セレストが早口で耳元に呼び掛けてきた。
「待って、誰か来たみたい」
 すぐにカルマは手を引っ込め、扉へ走り寄る。外ではこの部屋と程近い所で、トープとイムトが話し合っているようだった。「降臨」と呼んでいるものの手順を、丁寧に確かめている。明日にでも「信者」たちを集めて動くのだと聞き付け、カルマは心を決めた。何としても明日までに、ここから脱出しなければ。
 壁の傷はわずかに広がっただけで、逃走には時間が掛かりそうだ。見つかってしまえばどんな仕打ちを受けるか堪ったものではない。何気なくカルマは戸棚へ向かい、幅が縦にも横にも広い下側の扉を開けた。余裕のありそうな空間に体を滑り込ませると、ぎりぎりで収めることが出来た。奥の板を破り、戸を閉めて向こう側へ素早く出れば、逃げている様は敵に見られないだろう。
 廊下の気配が消え去ってから、カルマは扉の中にある薄い壁へ拳をぶつける。呆気なく穴の空いたそれを部屋にあるひびと合わせ、繋がって通れそうだと頷いた。昼食が運ばれるまでの間、カルマは地道に壁を傷付けていく。効果は少しずつ現れ、腕一本はぎりぎり通せるほどの穴が貫通した。昼が迫り、食事の時間が近いと外から言われて戸棚を急いで元に戻す。
 何事もなかったかのように二人して食卓のそばで着席し、やがて盆を持ったトープを迎え入れた。彼はやつれ気味の顔をカルマに向け、わずかに睨んでくる。
「食事の後、あなたとは話をさせていただきます。大人しく聞いてくださりますよう」
 トープが去ってからもカルマがパンや野菜炒め、鶏肉の焼いたものの載った皿を眺めていると、向かいのセレストがぶつぶつと何かを言い出した。
「美しき誇り高き神の降臨……必ず果たさないと。そうしたらきっとライニアのためになる。みんなが大事なものを思い出して、救われる――」
 言葉を聞き取っているうちに、彼女が普段は思ってもいないことを口にしていると感じ取る。間違いなく先ほど会ったトープに感化されているのだ。大声で名前を何度か呼んでいると、セレストは呟きを止めた。どことも知れない方向へ投げられていた視線が、こちらへ定まる。
「一緒に逃げるんでしたよね?」
「……ええ、そのつもりよ」
 微笑んだセレストは、皿の手前に置かれていたおしぼりで手を拭う。彼女は自らの価値観さえも、人に引きずられてしまうのだ。旅をしたいというのも、フュシャの趣味である故にただつられているだけではないのか。誰にも左右されていない「本当」のセレストは、一体どんな価値観や願いを持っているのだろう。
 食事が終わると、トープがカルマを外へ呼び出した。部屋のすぐそばで、自分がどんな宗教を信じているか聞かれる。故国に伝わる多神教だと教えると、サングラスを掛けた男は疑問をはっきりと顔に浮かべた。
「それならなぜ、ライニア神話をあそこまで詳細に知っているのですか?」
「自分で興味を持って勉強しちゃ駄目なんですか?」
 ただライニアを知りたくて、貪るように本を読み耽っていたのだ。どんな宗教であれ多少の知識があった方が、交流の役にも立つと思って。
「あなたは果たして、神に対する呼び水になり得るでしょうか?」
 恐らくそれはないだろうと、カルマは信用し難い男へ否定する。
「そもそも神を呼ぶなんてさせるか! そんなことしたら、何が起きるか分からない」
 カルマがまっすぐにトープを見て訴えると、男は別の部屋からイムトに声を掛けた。緩慢に歩いてくるイムトが指示を受け、腰のベルトに備えていた本を取り外して広げた。初めは何をする気か警戒していたカルマも、目まぐるしく変わりゆく展開に戸惑いを隠せなくなる。何せ本の中から、ライニア神話の神が次々と出てくるのだ。調べたものと容姿が違う神もあったが。
「彼の魔法を見て、まだ神を呼べないなどと言い切れますか?」
 トープの言葉に、何も言い返せない。だが疑問は湧いてくる。なぜイムトの技では満足できないのか。それに対してあくまで彼の魔法は一時的なものであり、トープは永遠に神を存在させたいのだと語る。永遠などあるものだろうか。
 逃げる隙も与えられず、部屋へ連れ戻された。奥の壁際にいたセレストが、両手をはたいて駆け寄ってくる。
「わたし、さっきの魔法を見てしまったんだけど……本当に大変なことが起きるみたいね」
 心配そうに話す彼女の両手が傷だらけであることにカルマは気付き、次いで自らの空けた穴が広がっているのを認めた。体全体は難しいだろうが、頭を外へ出すことは出来そうだ。
「ちょうど魔力が溜まっている感じがあったから、それで一気に壊してみたの」
 自慢げな様子のセレストへ、カルマは慌てて「治療ちりょう」魔術を施す。「感応」能力に思うところはあるが、今は何としても脱出へ近付きたい。壁の破壊と外の警戒を、二人で交代して続ける。昼食からだいぶ経ったころ、扉に押し当てていたカルマの耳に再びトープとイムトのやり取りが飛び込んできた。捕らえた少女をどうするか、先に捕まった者を助けに来たのかもしれないから別室にするなど、ぼそぼそと聞こえてくる。
「……いや、彼女も呼び水に出来るかもしれませんね。一度は事情を聞いてみましょうか」
 トープと思しき声に、カルマはぞくぞくとする不穏を覚えずにはいられなかった。

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