ライニア乱記 神住む湖 第一章 迫る異変 一、優等生現る
翌日の朝、レンは休み前と変わらず学校への道をリリと共に歩いていた。緑鮮やかな木々の目立つ区域を抜けると、店が多く並ぶ石畳の敷かれた町に出る。色とりどりの屋根を持つ煉瓦造りの家が建つ様は、観光客にも密かな人気らしい。それでもレンにとっては馴染みのある風景を進みながら、昨日アーウィンから聞いた話で二人は持ち切りとなる。
「アーウィンさん、無事そうでよかった。でも急に楽器が鳴らなくなっちゃったなんて、不思議だね。そのうちレンちゃんも、また魔法が使えるようになるんじゃないかな?」
赤い瞳を輝かせるリリは、無邪気に期待を漏らす。彼女が気にしているのは普段とは違う事態が起きていること――日常に異変が生じていることではないかとレンは見当を付ける。「白紙郷」事件と呼ばれるようになった騒ぎの中で、レンはそれまで一向に使えなかった魔術を発動できるようになっていた。自らの日常に危機が及んでいると判断された際に行使できる「非常」魔法は、平和が戻ってから使用できていない。それをリリに心配されることが、今日までの間に何度もあった。
「別に魔法のことなんて、気にしなくて良い。何か、あまり頻繁に使えちゃいけないような感じがするし」
隣にいる幼なじみから目を逸らし、レンは呟く。自分は日常を取り戻したくて、「白紙郷」へ対峙した。あの騒ぎで魔法を使えるようになったのは、その価値観が影響しているのだろう。大きなことが起こらないためなら、魔術実技の授業でいつまでも最低点を取っても構わない。
「……レンちゃん、先生に休みのこと言う? 魔術が使えるってわかったら、安心するかもしれないよ?」
顔を覗き込んでくるリリに、レンは黙り込む。確かに正直なことを話せば、友の言う通りになるかもしれない。しかし問題は、教師らが信じてくれるかだ。簡単には認めてもらえないとは、魔法の特性から見て明らかだ。
「レンちゃんの魔法、かっこいいなぁ。もっといろんな人に知ってほしいよ」
「……かっこいい?」
友の口から漏れた言葉に、つい口元が緩みそうになるのをレンは堪える。今まで誰かにかっこいいと思われたくて生きてきたが、まさかこれほど身近で聞けるとは。せっかく嬉しい言葉を貰ったのに、どう返せば良いか分からない。それをもどかしく思いつつ髪を掻き上げていると、ふと背に痺れるような感覚があってレンは足を止めた。
振り返っても車道との境に花壇の並ぶ道には、警戒した相手の姿はない。いつものように各々の鞄を持った同年代の生徒たちが、同じ方向へ進むだけだ。だが懸念している者が密かについて来ているのは確かだろう。彼が学校を休むはずなどないし、大幅な遅刻もあり得ない。
顔を前へ転じ、レンはいくらか早足で歩きだす。年季の入った門を抜けて校舎へ入り、二階にある教室へ入ろうとして自分を呼ぶ声を聞いた。さっと首を巡らすリリと違い、レンは変わらず正面を見続けている。廊下の突き当たりにいるはずなのに、遠くの階段辺りから届くというのが恐ろしい。
引き戸を開けて机の並ぶ部屋へ滑り込む直前、左肩を軽く叩かれてレンは小さく叫びを上げる。情けない声が出たと思って口を押さえ、相手を引き離すように肩を強く後ろへ振る。
「おはよう、レンさん! お休み中は何してた? 『白紙郷』の事件では無事だった? 宿題はちゃんとやってきてるよね?」
黒板に示された席へ向かう間も問い続ける少年に、リリもわずかに顔を強張らせて戸惑っているように見える。それでも彼は構わず、自分に向けてのみ質問をしてくる。数の多さに何から答えるべきか迷ったのもあって、レンは沈黙を貫く。そこへ救いのように、扉から顔を出す数人の少女たちが男へ呼び掛けた。
「カルマくーん! 今日の帰りに遊びに行かない? 映画とかどう?」
「あっ、ずるい! わたしが先に言おうと思ってたのに!」
「あたしだって、カルマくんとお出かけしたいんだから! そっちこそ抜け駆けしないでよ!?」
言い争いを始めた少女たちを諫めるように、後頭部の下辺りを刈った赤い髪に黒めの肌を持つ少年は扉の方へ歩み寄る。東方の大陸でも南にある国・シャンマで生まれた彼――カルマは、校内の女子生徒たちから非常な人気を得ている。成績優秀で運動も万能、将来は医者を目指しているとなれば、食い付きたくなるのも致し方ないかもしれない。レン以外の生徒に対しても落ち着いた様子で、今のように喧嘩を止める冷静さを持ち合わせている。
「ほら、新学期から仲を悪くしちゃ駄目だよ。放課後は予定もないし、みんなでどこか行こう? この前出来たあのお店とか!」
宝石にも似た輝きを持つ黒い目を細め、カルマは再び黄色い叫びを受けている。その瞳が不意にこちらへ向けられ、レンは視線を別の方へやる。
「レンさんもどう? リリと一緒で良いから!」
「行かない。家の手伝いがあるし」
鞄を椅子の下に入れ、レンはいつものように突き放す。隣の席にいたリリが、なぜ断るのか尋ねてきた。
「しつこいからに決まっている。わたしにだけやたら絡んでくるの、リリも知ってるでしょ?」
この中等学校に入学して以来四年間、カルマはなぜか自分に付きまとってくる。学校の行き帰りには常に見られているような感覚が襲い、授業前に教室を移動する際も、分からなかった部分はないか念入りに聞いてくる。時にはありがたいとはいえ、毎日のように続くと厄介だ。
「一応リリも、気を付けた方が良いと思う。さすがに命を狙ってくるとかはないだろうけど」
そうレンは忠告したものの、友は明後日の方向を向いてぼんやりとしている。今の言葉も、ほとんど耳に届いていないだろう。昔から彼女は、カルマのことをどこか気にしているようだった。自分のせいでその思いが彼に伝わっていないのかと思うと、少し申し訳なくなる。
「……リリ、あんたもあの子たちに交じってみたら?」
片手で背をつつき、もう片方の手でいまだ扉周りに群がっている少女たちを示すと、リリはわずかにこちらを見てすぐ机に顔を伏してしまった。いくらか濃い緑色の髪から、赤い耳が覗き見える。彼女も恥ずかしがり屋なのだから、踏み出す勇気が持てないのだろう。
騒がしい朝が終わると、予定通りの授業が始まった。黒板の前に立つ教師に指名されてすぐ、カルマはすらすらと答える。やはり予習も復習も抜かりない。離れた席で見ている分には良いのに、なぜ自分にはそのまともな姿勢を見せないのか。幼少期に親の仕事でライニアに来たという少年を、レンはじっと睨む。
昼食は各自の教室なり、二階にあるカフェテリアなりで持ち込みや購買の食事を食べて良いことになっている。大きな円形の椅子に二、三人分の座れる隙間を見つけ、レンはリリを伴って腰を下ろす。そこに案の定、茶色い紙袋を持ったカルマが姿を見せた。周囲から複数の女子生徒による視線を受けながら、彼はレンとリリの間に割って入ろうとする。それを防ごうとレンはリリに腰がくっつくほどまで近寄ると、彼女の隣に座るようカルマに促した。それならとリリのいない側の隣へ移ろうとした少年は、そこに幅がさほどないと気付いて諦めた。
「イホノ湖で何やら変なことが起きているの、知ってる?」
何気ないカルマの語にアーウィンの件かと、レンはサンドイッチを口へ持っていきかけた手を止める。同じく話し手を見るリリと共に、聞き逃せない話に傾聴する。
「近ごろよく人が集まっていて、水面もやけにざわざわしていて。観光客というよりかは何やら人の話を聞いているみたいなんだって。後者は風が吹いていないのにそうなっているんだとか」
硬そうなパンを齧るカルマは、心配が籠もりながらどこか他人事のように言葉を紡いでいる。一体湖に何かあったのか、様子を見に行こうか思いかけてレンはやめる。イホノ湖といえば、「虹筆」を取り戻すべく訪ねた時以来赴いていない。同じ湖水地方にあるといえど、このサーレイ村とは距離があって電車を使わねばならないのだ。そんな事情から関わらないようにしようとしていたことに、リリが食い付いた。
「ねぇ、本当にそんなことが起きているの? カルマくん、見たことはある?」
「いや、俺も話でしか知らないから……」
「だったらイホノ湖に行ってみようよ! レンちゃんも気になるでしょ?」
カルマに身を乗り出していたリリが、こちらへ振り返る。白い肌を上気させて微笑む彼女が、これほど積極的になることがあっただろうか。「白紙郷」の消却を恐れて怯えていた様とは全く異なっている。
自分と違って基本的な魔術は扱える友だが、万が一何かあったら。レンは息をついて同行を受け入れた。そしてついて来ると宣言したカルマが、膝上の荷物も気にせず立ち上がろうとしたのを押し留めたのだった。
普段は喫茶店で「お茶とお菓子の時間」を嗜む時刻に、レンはリリと電車に揺られてイホノ湖の最寄り駅へ向かっていた。隣の車両へ通じる扉の窓へ目をやり、すぐに視界を閉ざす。女子生徒たちにを約束を取り付けていたはずの男は、学校用の鞄を持ったまま向こうに佇んでいる。
「レンさんに何かあったら大変だからさ」
駅へ下りてから疑問を告げるレンに、カルマは笑顔で返す。どうせならリリも心配してやってほしいと、リリは少し離れて歩く少女を一瞥する。意気揚々と改札を出るカルマは、どうやらイホノ湖へ行ったことがないらしい。逆に自分はどうなのか問われて、レンは思わず黙り込んだ。あの「白紙郷」に関わったとは、なるべく明かしたくない。リリも唇を噛んで何も言わないつもりのようだ。自分と同じく、色々あったからだろう。
駅から看板を頼りに森へ入り、輝く水面を捉える。特に大きな波は立っておらず、平日だからか人も少なかった。湖を回ると石の祠が見え、そこへカルマが駆け寄る。
「あれ、神話に出てくる『虹筆』が入っているんだよね? 気になるなぁ」
正面に立つも扉は開けず、カルマはじっと祠を眺める。そしてレンたちも知らなかった湖の伝承をすらすらと語りだした。このイホノ湖には、昔より神が住んでいると信じられてきた。だが今はそれも、大勢に嘘だと思われている。
「昔には信仰されていたのに手のひらを返されちゃって、神様もかわいそうだなぁ」
腰に両手をやって溜息をつくカルマが、レンには意外でならなかった。彼は元々この国と接点がないと言っても良いはずだが、自分より神話には詳しい。しかもこうして、見えない存在に哀れみまで抱いている。しばらくカルマをぼうっと眺めているうちに、冷たいものが髪に触れた。いつの間にか灰色に変わっていた空が、ライニアではよく降る雨をもたらす。
小雨に濡れながら駅へ引き返し、道中で喫茶店にも寄ると言ったカルマにレンは問い掛ける。
「朝に約束した子たちのことは良いの? 寂しがっているんじゃない?」
思い出したように息を呑んだ少年は、レンたちと同じ駅で降りると反対側の出口へ走っていった。待たせてしまった少女たちに心の中で侘び、レンは立ち止まるリリの袖を引く。カルマの去った方を凝視していた彼女は、何度目かの声掛けでようやく反応を示し、重そうな足を動かし始めた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?