ライニア乱記 神住む湖 第二章 平穏と騒動の狭間で 六、戦いに赴く者たち
午後を迎えてだいぶ経っても、ヘイズは椅子に座ったまま手元の資料を眺め続けていた。そばの机にも、紙束が置かれている。いつも控えている部屋が事態急変の報告もなく静かだと、落ち着いて読み込むことが出来る。警察と共に集めた情報を記した文書が、先ほどからヘイズを引き付けていた。
トープという男とその家族は、警察の中でも知られた過激なライニア神話信者であった。特に両親の影響が息子にも強く響いていたのだろうと、ヘイズは推測する。ホロン教の修道士が礼拝へ行くよう一家へ提案した時、トープの父はその相手を殴って負傷させた。以降、今まで教会の礼拝にも参加しなかったことで白い目を向けていた周囲が、さらに厳しい態度を見せた。時には家に落書きや軽い放火といった迷惑行為がされ、その対処に当たった警察の記録が残っている。それから住んでいた地を離れ、大乱の後はどうなったか分かっていない。
神話と強い関わりを持つ人物といえば、ヘイズに真っ先に浮かぶのがエティハであった。彼も神話を信じていたことには変わらない。動きの方向性が、トープとはいくらか違いそうではあるが。
今まで確認された行動から、トープの思惑をヘイズは考える。彼はイホノ湖への侵入を拒む一方で、以前はそこ周辺で大勢の人を集めていたと聞く。きっといたずらに人を呼んでいるのではないだろう。心の合う者を見つけ、彼らを用いて何かを為すに違いない。加えて神話を信仰しているのなら、ほとんど存在を忘れられてしまった神を知らしめたいと思っているのかもしれない。
しかし、なぜ場所がイホノ湖なのだろうか。椅子から立ち上がり、本棚を探る。イホノ湖の伝承もあったはずだと思い返していた時、携行していた通信機器が音声を受信した。偵察部隊の連絡を行う兵の声は、ひどく慌てている。
『イホノ湖でまた一人、捕らえられました!』
目測によればざっと中等学生くらいの少女だという。すぐに映像を送ると伝えられ、やがて撮影された映像を机上の機械に受信する。ぼんやりと映る二人の姿に、ヘイズは目を見開く。向かい合っているのはそれぞれ、「白紙郷」の騒ぎでも会ったリリとイムトではないか。緑色の短い髪を持つ少女は、掴まれた腕を振り払おうとしている。そして本来なら元「白紙郷」の団員として裁きを受けるはずの男が、少女を画面外へ引きずっていく。
イムトの正体が公になれば、軍にも批判は届くだろう。なぜ危険だった「白紙郷」の者を逃がしたのか、責めてくるかもしれない。イムトを放置していたことで、子どもも巻き込むような事件が起きたのだ。彼ら「白紙郷」の逃走者はずっと行方を追っていたが、なかなか見つからなかった。一時捕らえていた時に輸送していた軍用車を、より堅固にしておけば。あるいは警備をもっと手厚くしておけば。
『大佐、今後の我々の動きについてですが』
端末を通して聞こえる部下の声に、ヘイズは悔いを打ち払う。今はあれこれ思考している場合ではない。起きてしまったことには問題点を見つけるだけで、後は深追いしないようにしなければ。
『現在、部隊を分けて一方でイムトの追跡を行っています。警察との協力を続けて、作戦を遂行するつもりです』
「了解した。くれぐれも大事は起こさないように」
通信を切った直後、今後は外から呼ばれてヘイズは戸を開けた。上層部より速報の件で話があるとのことに、顔をしかめる。速報というのは先ほど自分も受けた連絡だけでなく、トープによる新たな声明もあった。急ぎの解決を求められる一大事だが、軍が疑念を持っているのはその報道内容らしい。仕方なく制服を整え、案内に続いて数日以来の密室へ赴く。
「誰も出動を要請していないはずの部隊が撮ったという映像が流れているが、何か心当たりはあるかね?」
前方で横にずらりと並ぶ上層部の人間は、揃って冷たい目線を投げてくる。指示があるまでは何もしてはいけない、勝手な行動は慎めと咎めるように。まず部隊を自分が用意したことを認め、次いで事件の危険性を明かそうとして怒鳴り声が響いた。
「貴殿の独善的行動で問題でも起きようものなら、軍全体の信頼にも関わるのだぞ! それを心得ているのか!」
「……反省はしております」
軍帽を取って深く頭を下げ、しかし信念は崩さずヘイズは告げる。
「イホノ湖の件は、より大事になることが予想されます。これを止めるために――」
「良い、速報で分かっている。トープは予定通りに、きっちりと動くだろうな」
「では、国を守る者としてそれを止めようとは思わないのですか!?」
ヘイズは思わず前のめりとなり、握った拳を自らの側に置かれた机へ叩き付けた。向こうが短気を指摘するのも構わない。これは正当な怒りだ。国の安全のために、軍人は積極的に動かなければならない。
「皆様が許してくだされば――初めから強力な警戒態勢でいれば、事態はここまで進まずに済んだのです! なぜそれを放置――」
「もし大事にならなければ、貴殿はどう責任を取るつもりでいた?」
上層部の人間は、出動を認めなかった言い訳を並べだした。もし事件が拡大しなかった場合、必要でない余計な費用を使ってしまう。軍事費が税金で賄われている以上、それを無駄にするわけにはいかない。加えて民間人の不安を掻き立ててしまっては、より軍への信頼は落ちるではないか。
「――だが、今が危機的状況に陥ってしまったことは、もはや我々も認めざるを得ない。今後は貴殿の活動を許可しよう」
ヘイズはわずかに視線を上げ、指示を傾聴する。以後は正式に、軍としてトープの牽制を求められた。もっと早く言ってほしかった言葉への文句を抑え、ヘイズは準備を進めるべく元いた部屋へ戻っていった。
かつて「白紙郷」にいた同志は、トープの計画阻止を目論んでいるようだった。セレストの居場所を探りに外へ出向いていたフュシャがアーウィンに会ったのは、速報が流れて夕方も近付いていたころだった。とりあえず今日もイホノ湖を見てみようとそこへ行く途中で出くわした男は、セレストの居場所を知っていた。具体的に分からなかったトープの家を教えられ、日の暮れゆく薄暗い森の道をフュシャは進む。
「……ごめんよ、セレスト」
周りに誰もいない中、小さく呟く。彼女が捕らえられた時、あの場にいれば。今ごろセレストは悪い人間の影響を受けていないだろうか。「感応」能力を持つ者は、時に他人の性格に感化されて元の性格が変わってしまうことがあるという。セレストが明るくなったのも自分がそうさせてしまったのか、何ともいえない痛みがフュシャの胸を刺す。
先ほどから背後に気配を感じる。悪い予感にフュシャは振り向き、木々の立ち並ぶ道の奥から不吉な人影が近付いていることにどうにも出来なかった。勝手に足は止まり、かつてイホノ湖で自分を陥れようとした女を待ち受ける形になる。
「貴方、何をするつもり?」
低い声で責めてくるシランを警戒しつつ、正直に目的を明かす。一度裏切られたこともあって、この女を信用する気にはなれない。
「そのセレストと言う人、もし貴方が助け出す前に死亡していたら、貴方の動きは無駄になるでしょうね」
心臓が冷たくなり、フュシャは呼吸も忘れて長身の女を凝視する。浮かべたくもない映像が脳に流れそうになって首を振る。
「だからって、何もしないなんて出来ない。遺体になっていても、セレストは助けに行くさ」
「悪足搔きね」
突き放したシランは、フュシャの横を過ぎて道をまっすぐ進み始めた。慌てて彼女を追い、トープの家へ行くのか問う。肯定した女に手を組まないか誘いかけて、思い改める。どうせまた利用されかねない。イホノ湖で学んだ経験を、今こそ生かす時だった。
しばらく歩いてフュシャから遠ざかっていくように見えたシランは、突如立ち止まると踵を返し、武器を固く握ってこちらへ突進してくる。訳も分からずフュシャは反射的に身をかがめ、シランの抜いた刀の攻撃を免れた。直後に後ろで男の喚きを聞き、他にもこの道に人がいたのだと知る。
振り向いた先の男に、フュシャは言葉を失った。「白紙郷」で自分に対して色々と突っ掛かっていたイムトが、負傷した左上腕を押さえている。その足元には気絶しているのか、少女が倒れていた。彼こそがセレストを攫った犯人だ――アーウィンに聞かされたことを思い出し、フュシャは呆然とする男の襟を掴んだ。
「お前さん、セレストをどうした! まだ彼女は無事か? そもそも、何で連れ去ったりしたんだ!」
「何を言っても無駄よ」
シランがフュシャとイムトの間へ入り、強引に引き離す。イムトは必要としたからセレストを捕らえたのだ。そう話すシランに、男は付け加える。
「確かにあの女は要だが、こいつと前に湖へ来た男は別だ。ただの邪魔者だから捕まえた、それだけだ。まぁ、男についてもまだ使えるとかなんとかトープが言っていたけどな」
両目を閉じたリリを揺さぶるイムトに、フュシャは一歩だけ詰め寄る。セレストに何をするつもりなのか、問いにはあっさり答えが返る。彼女の能力を利用して、「神」を降臨させるのだと。
「呆れるわ。神を呼べる筈などないでしょうに」
すかさず言ったシランが、有無を言わさずイムトへ刃を振り下ろした。間一髪でかわした男は手を離しかけたリリを掴み、怒りで顔を赤くして叫ぶ。
「あんたはまたそうやって、神を否定するんだな! いいさ、今度こそ神話を実現させて、あんたの鼻を挫いてやるからよ!」
シランは走り去るイムトを追わず、ただ聞き取りにくい言葉を発していた。
「消却神話を再現しようとしても出来なかったでしょうに。どうせ今回も、成功する訳がないわ」
すたすたと足を進めたシランが遠ざかり、フュシャは彼女の行き先が自分と同じだったと気付く。せめて迷わないためにも後に続こうと、見えなくなりゆく女の影を慌てて追った。
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