ライニア乱記 神住む湖 第二章 平穏と騒動の狭間で 十、最後の抵抗
「『感応』の女は、そこに隠れていますね?」
戸棚を見つめたまま、トープははっきりした声で尋ねた。この場にいないとなればそこに隠れているしかないと、見当を付けたようだ。監禁及びもてなしに使える部屋はここしかなかったが、経年劣化によると思われる壁の傷をすぐには直せなかった。研究に明け暮れていて修復のための魔術さえ忘れてしまったと男は言う。わざと誤魔化そうとしたことが裏目に出たと悔やみ、彼はゆっくりと戸棚へ近寄っていく。その行き先を阻むように、カルマはトープの前に立ち塞がった。
「ああ、あなたに用があったのを忘れるところでした。脅迫をしたにもかかわらず、約束は破られた。故に残念ですが、あなたを殺害させていただきます」
どのような経緯で今の宣告に至ったのか、外の事情に触れていないカルマには分からない。ただ、戸棚からの物音でセレストが外へ出ようとしていることには気付いていた。それがトープの耳に入らないよう、カルマはわざと大声を張り上げる。
「俺なら何をしてくれたって構いません。でもせめて、セレストさんのことは助けてください。あの人には叶えたい夢が、これからの人生があるんです!」
戸棚の方が、一気に静かになる。あの人はもう、外へ出て行ったのだろうか。もっと話をしたかった――そんな寂しさが湧く一方、セレストの真なる無事のためにもカルマは叫ぶ。
「だいたいお前、どうしてセレストさんを――『感応』能力を持つ人を使おうとしたんだ! 人のどうしようもない体質に付け込むなんて、ひどいやつだ! 下手をしたら死ぬかもしれないんだぞ! 自分勝手に人を利用するなんて、恥と思わないのか!?」
脳に浮かぶ言葉を、カルマはひたすらに叫ぶ。思えば目の前の男と顔を合わせる度に、糾弾していれば良かったのだ。少しでも意見を伝えていれば、トープも考えを改める――その期待は、彼の発した言葉に裏切られる。
「『神』の降臨は、ライニアの民が求めていたことです。ワタシは彼らのために動いているに過ぎない。ライニア人でないあなたには、がっかりするより他ありません。――やはりあなたは、ワタシの計画において邪魔であったようだ」
言い終えられた直後、腹部の強い衝撃がカルマを襲った。胃から苦いもののせり上がる感覚と共に、気を失いそうになって何とか耐える。後ろにある戸棚が開けられないよう、どうにか守らなければならない。
トープは初めから、自分が憎かったのだ。今蹴ってきた時よりもさらに深い攻撃を、彼は加えてくるだろう。それも覚悟の上で、カルマは男を見据えて告げる。
「俺が気に入らないんだろう? なら殺せ! その代わり、これ以上『悪』に手を染めないってここで宣言しろ! セレストさんを使わないってな!」
喉が枯れそうになり、絡んだ痰を追い出さんと咳をする。それも再び入れられた腹への蹴りに止められる。息は詰まりそうになり、また声を出せるかも怪しい。
「……ワタシの為そうとしていることは、悪ではありません。ライニア人が根本に抱えているべき悲願を叶えることです」
「お前、狂っているなぁ! 今すぐその計画をやめろ!」
「人は誰もが、何かしらを信じています。あなたにも信じる神がいるでしょう」
今回の動きも、ライニアの神を信じる人のためにやるのだ。自分は彼らの邪魔をしようというのか。責めるトープへ言い返す暇もなく、カルマの首に相手の両手が回された。次第に首へ加わる力は強くなり、意識が遠くなる。計画は止められそうにない。このまま何も出来ずに死ぬのだろうか。せめてレンに一目会いたいとぼんやり思っていた時、トープの手が離れた体は急に床へ叩き付けられた。
暗い戸棚の中で、二人のやり取りはしかと聞き取れた。身を丸めて扉の奥に収まったまま、セレストは動かずにいる。自分を根気強く励まし、共に脱出を誓い合った少年がひどい扱いを受けていると、見なくとも分かる。
「セレスト、何をぼうっとしているんだ! 早く出ろ、向こうで聞こえていることなんて気にするな!」
フュシャにいくら言われても、体が動かない。カルマが痛みを覚えているのが、能力によって分かる。呼吸が覚束なくなりそうなほど苦しいが、一方で自分を守ろうとしている心も伝わってきた。窮地にあるのに人を救う思いがじわりと、セレストの中に広がる。ここまでしてくれる人を、どうして放っておけようか。
今度は首回りに、窮屈な感じを覚える。カルマのされていることを察し、セレストは咄嗟に狭い空間で後ろへ身を転じた。
「おい、こっちへ来るんだ! 今はあいつを放っておけ!」
フュシャの制止など聞き入れている場合ではない。扉を押し開けると明るい方へ飛び出し、カルマの首を絞めているトープへ頭突きを食らわせた。手を離れて床に倒れた少年を抱え起こし、セレストはトープを睨む。
まだ少年の体は温かかった。何も分からないはずなのに、その心が読み取れる。人のためなら命を投げ出しても良い。痛い気持ちが湧き上がり、彼の意思を自分が伝えねばならないと決める。深く息を吸い、セレストは生まれて初めて声が掠れんほどに叫んだ。
「あなたは人を思うままに動かしているみたいだけど、それで人が本当について来てくれていると思っているの? 神話を信じている人を操って、あなたは神を下ろそうとしている。お父様にも言うことを聞かせて、わたしを攫ってきたのでしょう!?」
トープは上着の中から縄を取り出し、有無を言わさずセレストの両腕を縛った。まだ自由である脚で蹴りを入れ、抵抗しようとする。
「カルマさんは、どうするつもりなの!?」
「無論、殺しますよ」
「そんなこと……!」
言い終える前に、セレストの身が総毛立った。カルマがこれから覚えるだろう感情が、一気に体を駆け巡る。体温は抜けていき、息をまともに吸うことも出来ない。そのうちに縛られた片腕の上側に、針を刺される感覚があった。見ると透明な液体が注射され、身の中に入り込んでいる。それを打っているのは気付かぬうちに現れていた、イムトと呼ばれていた男だった。
もう戦うことも逃げることも叶わない。神のために、自分は利用されるのだ。何をしているのだと、自分を責める――それが己から生まれたのではなくフュシャが思っていることだと、眠気を覚えながらも見抜く。外へ連れ出そうとしてくれた彼女に心の中で謝罪した直後、セレストの意識は途絶えた。