ライニア乱記 神住む湖 第三章 ライニアの神 二、湖畔の喧騒
日の昇り始めたころから、ヘイズは部隊の人員をイホノ湖の敷地内に配備していた。木や茂みの陰に隠れる部下たちには、人質含む民間人を攻撃しないよう言い付けてある。奥に止めた軍用車の中で控え、ヘイズは窓から人々が祠のそばに集うのを見つめる。ぱらぱらと現れた老若男女の顔には、生気が全く感じられない。ひどく疲れ切った様子で、目の光も乏しい。何かに生きる気力を吸い取られたように見える。ひとまず彼らを保護しようと、ヘイズは車を降りた。
トープの姿がない今のうちに、人々へ危険が及ばないようにしなければ。控えている部下たちにも指示を入れ、ヘイズは列になって固まる集団へ歩み寄る。だが軍服に気付いた者たちの反応は、こちらの思いを裏切るものだった。彼らは各々が所持を義務付けられている武器を構え、今にも攻撃せんばかりに威嚇してくる。
「邪魔をするつもりか、軍人! 仕事で平気に人を殺しておいて、まだ民間人に突っ掛かるつもりなんだな!?」
「トープさんは素晴らしいことをなさるつもりなんです! あなたはこの奇跡を壊そうというのですか?」
人々の抵抗に、周りを囲んでいた部隊が距離を詰めていった。ここで下手をすれば乱闘になりかねない。ヘイズはいったん退却するよう兵たちに指示し、軍用車へ戻ろうとした。ここはトープの対処に専念し、他の人間たちは無理に止めないのが賢明だろう。それを告げてヘイズが歩いていた時、人々から色めき立つような声が上がった。振り返った先で報道でも紹介されていた男が、気絶した肌の浅黒い少年を引きずっているのを認める。彼がトープで、連れているのが人質であることはすぐに推測できた。
トープが小脇に抱えていた本を地面に置く。ゆったりとした動きの隙を狙い、ヘイズは彼のそばに寄る。人々が小さくどよめくのも意に介さず、少年の解放を求めたが断られた。
「約束が破られたので殺します。既に決まったことなのです。信仰のない者への裁きを、ここで見せ付けなければなりません」
そう平然と話すトープの腰に短剣が備え付けられているのを、ヘイズは見逃していなかった。武器に目を向けて念じ、「非武装」魔法を仕掛ける。鞘に収まっていた刃は宙に浮くや否やヘイズの手元へ迷いなく飛んでいった。初めは何が起きているのか分かりかねているように首を動かしていたトープが、やがてこちらの行いに気付く。
呆然としている彼の隣へ回り込み、ヘイズはそっと少年の片腕を取る。そこで我に返ったトープに、人質をより引き寄せられた。湖畔の人々が騒ぐ中、自分の指示を受けた部下たちが、トープの後ろからゆっくりと距離を詰めていく。そして人質を救う手立てが整ったと見えた時、頭上から吹いて来た強風が部下たちをなぶり倒した。同時にトープも姿勢を崩し、少年から手を離す。すかさずヘイズは人質を抱え上げ、風に煽られながら軍用車へ走っていった。振り返った先に浮かぶ姿に、神話を調べている際に見た天気の神が重なる。
少年を車内の席に寝かせてから、警察と連絡を取る。トープの動きを牽制し、隙を突いて逮捕するという手順を確認しながら、窓の外を見る。部下たちが銃口を向けるのを止めるよう言いたいのはやまやまだが、それより警戒すべき者たちの行動が引っ掛かる。トープは背後で厚い本を広げた男――「白紙郷」にいたイムトに向き合って責め立てていた。
「あなたは何を勝手なことをしているのですか。おかげで見せしめの少年を奪われてしまったでしょう」
「でもおれがやらなきゃ、あんたは撃たれて――」
「それにあなたが先に神を出してしまっては、これから皆様に見せるものの価値がなくなってしまいます。どうしてくれろというのです?」
イムトは「召喚」魔法を使ってトープに助力しようとして失敗したようだ。実際に集まっていた人々は、先ほど見せたのは神だったのかなどと言って騒いでいる。現れたものの正体を推測して興奮する者も多くいた。
現在のライニア人はここまで、神に興味を持っているものなのだろうか。やたらと関心のあるような様が、ヘイズには理解し難かった。再び神の姿を現してほしいと訴える人々は、架空の物語に惹かれているというより、心から救いを求めているかに見えた。自分の知らない所で信仰が広がっていたのか、ヘイズは唸る。
「ったく……いつも自分から動くとこうだ! だったら指示されて従うだけの方が楽じゃねぇか!」
イムトの怒鳴り声で、ヘイズは顔を上げた。叱責された男はトープの襟を掴み、怒りに顔を歪めている。向こうの作戦が実行されるより前に頓挫するのではないか、注意深く観察する。
「いつも、ということは前にも同じ目に遭ったのですか?」
「ああ。『白紙郷』でな、団長に指摘された。自分で考えてやれってことだからその通りにしたのに、怒ってきたんだ」
かつて国を脅威に陥れていた組織の名に、人々が恐れを見せた。一斉にイムトのいる側から離れ、外へ続く道に出ようとする者もいる。また自分や町を消すのではないか、そうした恐怖に襲われていることはすぐに理解できた。
異変に気付いたトープが、イムトを振り払うと素早く本を拾う。そして開いたページにあると思われる文を読み上げるなり、人々は大人しくなった。湖畔から騒ぎ声は消え、逃げかけていた者が引き返している。まだ喚いていたイムトも黙り、それまで逆らっていた相手を凝視する。そして外に控えていた兵たちも、トープの方を向いて固まっていた。
彼が本を読んだことにより、魔法が発動したのか。ヘイズに考えられたのは、洗脳にまつわるものだった。だが軍用車に乗っている自分と人質の少年、部下たちに影響はない。遮蔽物の中にいると、効果がなくなるのだろう。
しばらくしてトープは本を閉じ、軽く周囲を見回す。口元は緩み、こちらの様子には気付かず魔法の効き目に満足しているようだ。表情の消えたイムトへ、トープは指示を下す。
「『呼び水』を持ってきてください。くれぐれも傷は付けないように」
イムトは返事一つせず、外へと続く道を行く。少しずつヘイズの視界から遠ざかる彼の動きは、どこか硬い。これも魔法によるものか考えながら、ヘイズは上の言いなりになることを余儀なくされた男が去るのを見つめていた。