グラフィックファシリテーションと対話について考えてみた
キレる部下に悩む上司について書かれている記事を読んでふと考えた。
上司⇔部下、会社⇔従業員、といった対立構造を無意識のうちに作ってしまっていないか。
今一度自分自身を振り返ってみた。どちらかの共感を得るために意図せずやりがちだった。
なぜ今、「議論」ではなく「会話」でもなく「対話」という言葉に焦点があたるのか。このことが示す意味をよく考えないといけない。
グラフィックファシリテーションが対話の場に有効というのは、参加者の俯瞰的な視点を助けるからだと考える。
「自分の認知をより高い視点から客観視する」メタ認知を、グラフィックファシリテーションをするものが話し手聞き手にある種憑依することで、目に見える形で場に描き出すのだ。
描かれた自分たちの発言を、俯瞰的な目で改めて眺めてみる。そうすることでこれまで気づいていなかったことに気づく。
そこを起点にまた対話を重ねることで、「AかBかどちらが正しいか」ではなく、「では私たちはどうしていけばいいか」というOurの目線に立つことができるのではなかろうか。