連載(25):経済を意識的にコントロールする
経済を意識的にコントロールする
「あなたは、計画経済とか計画社会という言葉を嫌っているようですが、社会を意識的にコントロールすることはとても大切なことなのですよ。その理由を述べましょう。
私たちは何かプロジェクトを起こす時、まず企画し、立案し、その立案に基づいたプログラムを設定して実施に移ります。また終わった後も、どのような成果が収められたか分析し、将来にそなえ資料を作成します。
こうして、企画―立案―実施―結果分析、といった一連の作業を通じて人間社会は進歩していくわけですが、これはすべて意識的に行える、いわゆる能動的なものです。
間違いのない未来を開拓するには、この意識的ということがとても大切なことなのです。私たちの行動が意識的に行われているように、社会運営も意識的に行われなくては正しい目標に近づくことはできないでしょう。
このことからもいえるように、意識的にコントロールできる仕組みこそ、間違いのない未来を切り開く唯一の方法なのです。ところがどうじゃろう。資本主義は意識的にコントロールできる仕組みじゃろうか?。
資本がすべてを支配する世界において労働力は、一つの商品という形を取ります。またそこで生産された物も、一つの商品という形をとります。ここでの商品は、使用価値という側面よりも交換価値という側面を重視されるがゆえに、市場経済独特の運動法則によってその姿が不透明になっていきます。
そこに資本家の成算や、労働者の要求や、消費者の欲望が複雑にからみあうと、その姿は一層不透明になっていきます。そのべールをはがすために経済学の研究がなされるわけですが、いかに研究しようともこのつかみどころのない生き物の正体を解明することはできません。現に、インフレ、デフレ、財政赤字、貿易赤字、格差、失業、貧困、などの問題が起こっているのは、人間がこの経済を解明しきれていない証でしょう。もうこの世界での人間関係は、単なる表面上のものにしか過ぎず、損と益・利と害の関係、上(豊かさ)と下(貧しさ)との関係、煎じつめれば、人と貨幣の関係に収斂されていくのです。
その世界は、意識的にコントロールできない世界です。利潤を追及し資本を膨らませ、利潤を追及し資本を膨らませる行為が、必然的法則として社会を縛っていきます。そんなところに正義も道義もありません。
たとえば、資本主義社会において物をつくる動機は儲け以外ありませんから、売れると思われるものはどんな悪的(法律に触れない)なものでもつくられます。今日の商品が好奇心をあおるもの、快適なもの、便利なものが主流となっているのも、こういった利益優先が動機となっているからです。そのために故事伝来の文化が廃れたり、尊ぶべき習慣とか風習といったものが退廃したり、人々の心が毒されるといった弊害が生じているのです。
奉仕社会における計画経済の良いところは、意識的にコントロールできる点にあります。
つまり、
① 人々の嗜好の把握が意識的に可能
② 生産調節が意識的に可能
④ 平等な配分が意識的に可能
⑤ 労働量の調整が意識的に可能
⑥ 物資の流通調整が意識的に可能
⑦ 環境調整が意識的に可能
⑧ 資源やエネルギーの調達が意識的に可能
⑨ 労働意欲を堅持させることが意識的に可能
私たちがこの世に生を受けたのは、一重に人格(魂)を磨きこの地上界に理想世界を築くためでした。そのために経済は必要だったのです。
ところが、手段であるはずの経済活動に人生の目的が転換してしまい、肝心要の人格を磨くといった目的がおろそかになってしまったのです。したがって、優勝劣敗現象・弱肉強食現象といった動物まがいの闘争が展開されるようになり、弱い者が虐げられる不都合が生じてきたのです。
痩せ細った子供たちの死を見る時、なんと人間は罪深いことをしているのだと怒りを感ぜずにはいられません。
この世界に物は溢れているのです。その物が万遍に行き渡らないのは、あくまでも意識的に行えない経済の仕組みにあるのです。
もう一つ計画経済の良いところは、人々の長短期的な指向に報いる万能性をもっているという点です。また途中で方向転換したい場合も、即座にできる自在性をもっているのもこの仕組みの良さでしょう。
ただし、何事も意識的にコントロールできる反面、ひとつ間違えば次のような危険性もひそんでおります。
① 独善的専制政治の懸念
② 労働意欲の減退化
③ 偽善の蔓延
①は、民主主義さえ成熟すれば克服できる問題でしょうが、②と③は人の心を相手にしなければならないだけに少々厄介です。しかしこれとて、進化の追随に人類は必ず克服してしまうでしょう。」
「しかし計画経済というと、どうもソビエト共産主義を思い出しあまり良いイメージがもてないのですが?。」
「しかし今日の日本も、自由経済大国といわれながら社会主義的色彩を濃くみせているではありませんか。いわゆる、修正資本主義あるいは社会主義的資本主義といわれるものです。
つまり、国家が行政指導という名目でさまざまな制約を設けたり、『経済何ケ年計画』といった経済方針をうち立て市場経済に方向性を与えているのは、明らかに社会主義的動きだからです。
また最近では、私的独占資本の解体によって企業が社会共同体的な形に変わりつつありますが、これも社会主義的といってよいでしょう。つまり所有と経営の分離、経営への自由参加、そして労働組合の経営への参画が、企業を社会共同体的存在におし上げているのです。
このように自由経済を望む中にも、社会秩序を保持する意識の介入が働いているのです。
(つづく)