連載(24):競合は必要か?
競合は必要か?
しかし、奉仕経済の柱となっているのは計画経済だろうから、競い合うことが少なくなるだろう。そんな世界に進歩はあるのだろうか?。
そんな疑問がふと私の脳裏をかすめた。
「それでは競合のない社会で、人間は一体何を目標に努力すればよいのでしょうか?。」
私は、ここぞとばかりに突いた。
「努力する目標がない?。」
「平等で格差がなく、生活に困らない社会で、もし職種や職階にこだわらない生き方をするとすれば、あと何の目標が残るでしょうか?。そこに何の奮起が期待できるというのでしょうか?。」
「あなたには家族はありませんかな?。子供はいませんかな?。人生の目標はありませんかな?。国民としての責務を感じませんかな?。人類としての大義を感じませんかな?。」
「はあ・・・?」
「夫婦仲よく手をとりあい子供を立派に養育する。人格を極め負わされた使命をまっとうする。人のため社会のために働く。理想世界を築き人類の進化を押し上げる。そんな崇高な目標があるではありませんか?。今の私たちの目標は、そんな崇高なものですかな?。あなたが考えている競合とは、利己心を満足させる貧しいものではないのですかな?。」
「・・・」
「人間同士の競合なんて安っぽいものです。あなたが本当に競わなければならない相手は、あなた自身ではないだろうか。つまり、あなたの心です。その心は、この世のどんな相手よりも手ごわいのですぞ?。」
「でも、目に見えない心を相手にするより、目に見える人と競い合う方が手っ取り早いのではないでしょうか。その意味では、資本主義世界はそれを適えてくれる格好のシステムだと思います。その点奉仕世界は、社会主義世界のように計画経済が基調のようですから、どうしても競い合いが少なくなると思います。そんな社会では、個人の特性は社会の中に埋没してしまい、画一的なロボット人間ばかり出来てしまうように思います。事実社会主義世界が崩壊したのは、この人間味のない計画経済が原因ときいております。」
「ちょっと待ちなされ、社会主義が崩壊したのは、人の心を無視した唯物主義がもたらしたもので、決して計画経済が原因ではありませぬぞ!。」
「ご老人の提唱する世界は、配分の違いや貨幣が存在しない違いはあっても、その根底をなしているのは計画経済と無競合システムではないでしょうか?。社会主義が崩壊したのは、計画経済と無競合がもたらした労働意欲の減退にあったはずです。品質においても、性能においても、生産性においても、西側諸国とは比べようのない劣悪さです。またオリジナリティーが無視された画一的品々は、人間の精神的個性まで失わせています。」
「勘違いしては困ります。配分の技術的未熟はあったにしても、社会主義が崩壊した真の原因は、人の心を無視した、まったく物でしか存在価値を認めない唯物主義(スターリン型社会主義)がもたらしたのです。彼らは公平な配分を口にしながら、自由を無視した不公平極まりない社会を作ってしまった。強大な権力を傘にきた官僚制度は、人民から夢と希望を奪い、そこに蔓延した、わいろ、ごまかし、追従、盲従、怠惰や日和見主義が、社会主義を崩壊へと追いやったのです。
あなたはオリジナリティーがなくなり、画一的なロボット人間ばかり出来てしまうと心配するが、私にいわせると、奉仕世界こそ個人の特性を最大限に生かしながら、なおかつ創意工夫の発揮できる世界だと断言できる。本来企業家や労働者は、いかなる時も“人の為に”“社会の為に”尽くす気高い目標をもっていなければならない。
なのに企業家は、儲けることを最大の目的としている。労働者にしても、人より多くの報酬を得たい!、物質的豊かさを謳歌したい!、職場での地位を上げたい!、といった至って貧しい目的です。
社会主義に至ってはどうでも良い、ただその日を無事にすごせたら良い、といったマンネリズム的堕落精神です。それでは社会が良くなるはずがない。
奉仕社会の第一義は、人のため生きとし生けるもののために人々が手をつなぎ、下から盛り上げていくものです。したがって奉仕社会では、各人の自主的行動に期待が委ねられ、特色ある労働成果が期待できるのです。
たしかに生産量などの枠決めはあるにしても、その内容はより高質性が要求され、より良い品作りの研究は寸暇をおしんで行われるでしょう。ましてや単純労働ともなると、その単純さの中により一層の味つけと飾りつけがなされ、マンネリ化の打破と労働意欲の増進が図られるでしょう。
なぜそう断言できるかといえば、時間の余裕と恵まれた職場環境の下で、売上増強も利益追求もいらない労働者のめざすものはただ一点、品質の向上にあるからです。
“職人馬鹿”という言葉がありますが、良い意味でそれが発揮されるのです。こうなると労働者は、技術の改善や品質の向上に全力をかたむけられるし、技術者や科学者も、人類の崇高な目標を目指して研究にうち込めましょう。また医者も教育者も政治家も、純粋に国民の幸せを願って献身できるでしょう。」
「でもご老人は先程、“利便や快適は人を堕落させる敵である”とおっしゃったではありませんか。なのになぜ、品質の向上が必要なのでしょうか?。」
「私は単に五感をくすぐるもの、好奇心をそそるもの、そんな不真面目なところに技術革新を使ってほしくないといったのであって、品質の向上を図るなとはいっておりませんぞ。『質の追及』は人生の目的とも一致するのですから、大いにやったらよろしいのです。」
「質の追及とは、具体的にどのようなことでしょうか?。」
「今日の経済でタブーとされている完全品を作ること、これを質の追及といっているのです。たとえば、一生使える鉛筆とか、壊れにくい電化製品とか、破れにくい衣類といった質の追及ですね。この種の追及も大いに意味ありますが、質追求の本当の目的は物質を征服することにあるのです。たとえば、永遠のエネルギーをくみ取ったり、次元の扉を叩いたり、時間と空間を征服するといったもの、あるいは、幸せ・感動・安らぎ・美といった絶対的価値をつかみ取ることです。」
しかし、自分との戦いだけで人間は本当に成長できるだろうか?。スポーツをはじめあらゆる技術の向上は、競い合いの中でこそ成し遂げられるはず。今の社会はまさにそうだから、著しい進歩を遂げてこられたのではないだろうか?。たしかに、試験地獄や企業摩擦などの弊害もあったが、それがあったればこそ人は勉学に励み、企業は努力し、国家は奮励し、発展してこられたはず。生ぬるい湯の中で、人は本当に成長できるだろうか?。
私は首を傾げないわけにはいかなかった。
「あなたのいい分だと、“戦争が科学を発達させた”という理屈と同じになりますぞ!。」
「えっ!。」
またまた心を読まれた驚きに、私はドギマギした。
「たしかに競い合いによる成長は、この世界ではある時期必要じゃろう。あなたがいうように、これまで競争社会が人や国を成長させたかもしれないが、いつまでもそのような他力に頼っていてはいけないのです。
人の成長というものは、ある時期を過ぎれば内的なもの、つまり、自分の心を競合相手としなければならないからです。
人間は自らに甘い、だから規則をつくって、監視人をおいて、強制的にしたがわせようとする。法律や社則などはその代表的なものでしょうが、これを頼りにしている限り、人の進歩は、たかがしれています。競争し合わなくても、規則で尻を叩かれなくても、自らの意志によって自らを律し、発展的行動につなげてこそ本物の大人といえるのです。他人の目を気にし、規則だからしかたなくやる姿勢では、いつまでたっても幼子から脱皮できないじゃろう。
奉仕世界では、規則は申しわけ程度にしかない。律するのは自らの強い意志であり、それを行動につなげるのも自らの意思です。これが本心をもってできた時、自己完成に大きく近づくことができるのです。これは、人間の本性が理解できれば、分かることなのじゃが・・・。」
はたまた老人は、話をそこへ持っていった。
しかし計画経済下では、仕事は自分が作るのではなく上から与えられるのではないだろうか?。そこにどうして、個人の味つけができるだろうか?。
「今日のような競合盛んな社会にあっても、仕事は人から与えられるものだと勘違いしている者は、意外と多いものです。先日知人からこういう話を聞かされました。彼は駅長をしていることもあって、さまざまな人間像を見せつけられるといっておりました。駅には沢山の清掃員が派遣されておりますが、その殆どが中老年の男女だといいます。彼らは、片手にホウキ、片手にチリトリをもって駅構内を清掃していますが、清掃する先から心ない人たちがタバコの吸い殻を放っていくといいます。それも鼻先でやられるらしいのですが、彼らは腹もたてずに落とした吸い殻を黙々とひろっていきます。ひどい者になると、チューインガムまで吐き捨てていくそうです。あまりにひどいので、彼は注意したそうです。ところが返ってきたいい草がまたひどい。
“何をいうんだ!、俺たちは清掃員に仕事をつくってやっているんだ!、有り難がられても文句をいわれるいわれはない!”と、・・・。
彼は清掃員に同情して、“困ったものだね、君たちも良く我慢をしているよ”といったところ清掃員は、
“彼らのいう通りですよ、駅が奇麗だったら私たちの仕事は上がったりですからね、ハハハハハ”と・・・。その言葉に彼は、しばし声が出なかったといっていた。そして、何が正義か不正義か分からなくなってきた、とこぼしておりました。
最近いわれることですが、濫費がなければ経済が停滞し失業者が増える、だから濫費や浪費も大切な経済行為だと・・・。これなども仕事を作ってやっているという屁理屈に通じている考えでしょう。
ともあれ私たちの仕事は、決して人から与えられるものではありません。いかにしたら社会に貢献できるか?、何をしたら人のためになるのか?、といった公役に服す精神で自ら仕事を見つけ出し、それを価値あるものへとつなげなければならないのです。たとえ与えられた仕事であっても、ただ機械的に消化するのではなく、常に創意と工夫をこらして、新しい発見と喜びを生まなくてはならないでしょう。」
(つづく)