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連載(22):自由収得制度

この記事は『かとうはかる(著)「人類の夜明」』を連載しています。

自由収得制度

「それでは貨幣も用いずどのように配分するか、いよいよその異色ともいえる配分システムの核心に触れることにしましょう。

大自然の生態系をみて感心させられるのは、我が身を犠牲にして他の生き物を生かす捨て身の精神、つまり滅私奉公の姿です。この精神が法のもとに脈打っているから大自然の秩序は保たれ、生命の循環も絶えることがないのです。すなわち、一見相い食む弱肉強食の醜い姿の中に、素晴らしい秩序の束ねが息づいているということです。

“人間は社会的動物である”といわれるように、人間社会は色々な人が寄り添い助け合うことによって成り立っています。しかし、資本主義社会における助け合いは真心から生まれたものではなく、個々人の利害や損得の投げあいの中から生まれた不純な助け合いにしか過ぎません。すなわち、私的な労働力が損得勘定を背景に個々バラバラに積み上げられ、社会的労働力として運用される中から生まれた、結果的な助け合いに過ぎないということです。奉仕世界では、それを真心をもって表せる土壌作りに成功しました。つまり、『互恵』『犠牲(奉仕)』『少欲知足』の三つの精神を社会の中心に据えることで、何の強制力(権力や資本力)も使わず経済を循環軌道に乗せることができたのです。

経済を循環軌道に乗せるという意味は、私たちの労働力は切り放された存在ではなく、循環して渡り歩く社会的労働力であるという意味です。特に、利害や損得から解放された奉仕労働力は、途中で何ものにも邪魔されないだけに、速やかに「結果・成果」として自分のところに帰ってきます。それだけ張り合いも緊張も責任もあるわけですが、もしこの奉仕労働力を社会機構に完全に組み込むことができたら、すべての生活必需品を自家消費感覚で使用して良い!、といった制度も異端で無くなってきます。自分が作ったものを自分が使うのに、誰にも遠慮はいりませんからね・・・。これがこの世界の配分精神なのです。つまり配分は、本人の自由意志に任せた自由収得制度で良い、すなわち必要な時に、必要な量だけ、自由に持ち帰って良い!、という制度がこの世界の配分システムなのです。これなら、貨幣も、物々交換も、配給制も、必要ないでしょう。」

「それじゃ、泥棒と同じではないですか!?。」

「自分の物を持ち帰ることが、どうして泥棒になるのですか?。」

「たしかに、自国民が作ったものを自国民が持ち帰るのであれば問題無いでしょうが、他国民が持ち帰るとなればこれは別問題だと思います。」

「でも自国民だって、他国へ行って収得することがあるのですよ。これはお互い様なのです。」

「そうなると、持ち帰る人の心構えが問われそうですね?。」

「そうです。この制度の発想の原点は、人の心を敬い信ずるところから出発していますから、やはりそこらへんが問題になってくるでしょう。しかし、食べるものにしても、着るものにしても、住む家にしたって、質素な生活に甘んじる限りそう大差は出てくるものではないでしょうから、基本的な生活材に限ってみればそう案ずることもないでしょう。『収得』という言葉を使ったのも、すべての生活材は「自家消費のため!」ということを強調したかったからです。つまり自分の家で作ったものを、自分の家族が消費する感覚ですね・・・。

家族の物に欲を募らせる人はいないでしょうからね。とはいえ、生産調整の必要性から、収得内容を報告する義務は徹底させねばならないでしょう。

「でも人の良心をあてにして、本当に配分秩序が保たれるでしょうか?。世の中には、強欲者もいれば偽る者もいます。良心の塊みたいな人ならともかく、不正直な者は報告義務を怠るばかりでなく、いくらでも持ち帰ってしまうでしょう。たとえ正直者でも、報告義務を忘れることだってあるはずです。それでは、この制度は成り立たないのではないでしょうか?。」

「沢山持ち帰ってどうしますかな?。貨幣があれば一儲けすることもできましょうが、貨幣のない世界で多くの物を持つことは、厄介を多く背負うことになるのですよ。

ここに三人の人がいて物が四個あったとすれば、一個余ってしまうことになる。すぐに使うのだったら問題はないが、使わないとしたら、保管場所もいるし保管の手間もいる。生ものは腐りやすいから、保管には余計に神経がいるでしょう。必要な時いつでも自由に収得できる社会で、なぜ神経を使ってまで余分な物を持っている必要がありましょうか?。多く物を持っていなければ安心できないのは、信頼のない社会で生きている人間だけです。次のように考えれば、その不安も解消されるでしょう。

たとえば食糧なら、自分の食糧保存庫が市場にあって、そこで仲間が自分のために保管してくれている。少々面倒ですが、必要なときに市場に出掛け自由に持ち帰れば良いのです。できるだけ余分な物を所持しないよう心掛けるのが、この世界に生きる人たちの暗黙の了解事なのです。

たしかに、行き渡らないほどの品不足ならあなたの心配もうなづけますが、いつも品物が豊富で、いつでも自由に持ち帰れる環境が整っていたら、誰が余分な物を持ち帰ろうとするでしょうか?。たとえ食べたい物がかちあって品不足になったとしても、明日まで我慢すればすむことです。信頼の行き届いた社会なら、その心の余裕さえ生まれるものです。

石油ショックの時、流言飛語に惑わされた主婦達がトイレットペーパーの買いだめに走ったことがありましたが、品不足になったのは、一儲けを企んだ業者が売り惜しみをしていたからでした。隠しておく方も卑劣なら、買いだめに走る方もまた愚かといわねばなりません。人の心の弱さといえばそれまでじゃが、これは資本主義経済に対する信頼のなさが引き起こした、笑い話にもならない事件でした。真にその経済に信頼があるなら、決してそのような混乱は起きなかったでしょうに・・・。」

「ご老人がいわれるように、すべての人が良心に恥じないよう一生懸命働くのでしたら、この制度は本当に素晴らしいと思います。でも世の中には、怠け者もずる賢い人もおります。そういう人たちは遊びながら食べたいのです。これでは配分の正義がまかり通らないのではないでしょうか?。一生懸命働く者は裕福に、怠け者は貧乏に、これは自然の摂理だと思います。たとえばここに、Aという人とBという人がいて、この二人に同じ量の芋を分け与えたとします。勤勉家であり努力家でもあるAは、もらった芋をみな食べるのではなく将来に備え増やそうと考えました。荒れ地を開墾し田畑をつくり、そこに種芋を植えました。その努力が実って、Aはたくさんの芋を手にすることができました。一方Bはもらった芋をみな食べてしまったので、すぐに食べるのに困ってしまいました。そこでBはAに芋を恵んで欲しいと申し出たのですが、この場合AはBに芋を分け与える必要があるでしょうか?。誰もが、いつでも、ただで、欲しい物が手に入る社会とは、怠け者に芋を恵んでやるようなものです。果してこのような配分システムが、正しいといえるでしょうか?。」

「結論からいいましょう。どんな事情があろうとも、困っている人を助けるのは当然です。ただしこの救済方法には、三つのやり方があると思います。

一つは、Bがまったくの無能者の場合です。この場合は無条件で助けてやらねばならないでしょう。何せ、能力がまったくないのですから仕方がありません。

二つ目は、能力はあるが無知なため、どうしたら最善の生活が営めるか分からない場合です。この場合、物を与え当面の生活を支えてやる一方、どうしたら最善の生活が営めるか教えてやることです。これなら一度目は失敗しても、二度目からは立派に自立できるでしょう。

三つ目は、何もかも承知の上で、ただ働くのが厭だから何もしない場合です。この場合は黙って物を分け与えてやることです。何せ、人生の目的は何か?、人の生き方はどうあるべきか?、どのようにしたら最善の生活が営めるか?、すべて知った上での怠惰ですから、どう諭すこともできないでしょう。でもこのような人は、一人もいないといって良いでしょう。なぜなら、本当に人生の目的を知った人なら、決して怠け心など起こさないからです。怠け心を起こすのは、やはり無知ゆえです。つまり人がこの世に生まれて来た理由、努力することの尊さ、働く意味などが分からないから怠け心を起こすのです。したがって、怠け者のためになぜ働かねばならないのだと愚痴をこぼす人や、楽ばかりを追い求める人には、人生の意味をしっかりと教えてやることです。要するに、『人助けは人の為だけにあらず、いつの日か我が身に返らん』という真理を教えてやることです。」

「情けは人のためならず、というわけですか?。」

「そうです。ですから、愚痴も文句もいわず黙々と働いている人は、自分の為に働こうが怠け者の為に働こうが、努力に対する応報に色分けのないことを知っているから、決して怠け心など起こさないのです。あとの制度の欠陥などは、知恵を絞ればどうにでも解決できる問題です。」

「しかし、すべての人に行き渡るだけの物の確保ができるでしょうか?。」

「今日世界の特定地域で物不足が起こっているのは、国の経済政策の失敗か政治的混乱が原因です。もし何百万何千万という軍人を、あるいは売るため儲けるために動いている人たち(非製造労働者)を、生産過程に有効につぎ込むことができたら、そして今日の工業技術を持って円滑に生産活動が行われたら、この地球は物で溢れかえるでしょう。」

「でも、高価な品物、自己顕示欲をくすぐる品物、流行品、あるいは美味な食料品などに人気が集まり、常時不足する品物が出てこないでしょうか?。またその逆も考えられると思いますが?。」

「全く無いとはいえないでしょう。しかし、消費統計や生活アンケート調査を進めるにしたがい、人々の趣向も把握でき、極端な品不足や余剰品のでることも、なくなっていくでしょう。今日でも美味な食べ物に落とし穴があるのは知られておりますが、今後その正体がはっきりするにつれ、グルメ狂といわれる、美食家や大食家は減っていくでしょう。これは単に食べ物だけの話でないことも、人は知るようになるでしょう。」

「しかし食物には腹一杯があっても、着るものや身を飾るもの、あるいは電化製品や家具調度品といったものには腹一杯はありません。自制心のある大人といえども欲に誘われ、沢山持ち帰るのではないでしょうか?。また自制のきかない子供たちは、きっと好きなように持ち帰ってしまうでしょう。」

「たしかに、人の欲望を制御することは難しいかも知れません。でも奉仕社会は、あえてそれに挑戦するのです。奉仕社会は、完璧なほど自由を重んじます。それだけに自由には、対等の責任がのし掛かってきます。当然責任のとれない子供たちは、自由の行使は制限されるでしょう。つまり、必要な物は親が与え、子供たちに自由収得を許さないのです。今でも子供に渡す小遣いは、成長の度合いによって親が調整しているはずです。それがなされない子供は、どうしても曲がった道に足を踏み入れてしまう。だから奉仕世界では、親と社会が一体となって子供たちを見守るのです。」

「では収得が許されるのは、大人になってからですか?。」

「十五歳以上になれば許されて良いでしょうが、これも我が子の成長度を見て親が決めるべきでしょう。これは大人であっても、同じ考えをもって対処すべきでしょう。(責任能力の欠落している大人たち)とはいえこの世界の人たちは、“贅沢は敵”が身に染みているし“欲望の正体”も知っているので、決して無謀な収得には走らないのです。要するに、無謀な収得は人の心を腐らせ、環境にも悪影響を与え、しいては自分の労働にも負担を掛けるということをよく知っているのです。」

「でも中には、物欲に誘われ無用な消費に走る人も出てくるのではないでしょうか?。そんな人たちの罰則などは用意されているのでしょうか?。」

「奉仕世界には罰則も罰する人もいません。だが一番厳しい良心という法の番人がおり、行為に対する応報(原因と結果の法則)という処罰があります。この世界の人々はそれを何よりも恐れるから、無謀なふるまいはしないのです。」

「でも人の良心をあてにして、本当に社会の秩序が保たれましょうか?。それは理想ではありますが、現実とは程遠い考えだと思います。」

「もっとも、今日のような貨幣本位制の中でやれといっても無理でしょうが、欲の空回りする社会なら、きっと現実味をおびてくるはずです。」

「欲の空回りする社会?。」

「貨幣も私有財産もない世界では、欲を起こしても空回りするしかないから、その欲はきっと良い方に向けられ、“悪に強きは善にも強し”ということになって、良きものは一層、良きように展開していくのです。人の心は元々善ですから、良い制度の中では善が光り輝くしかないのです。人の心はそう見捨てたものではありません。」

老人は確信に満ちた笑みを漏らしたが、本当に人の心は見捨てたものでないのだろうか?。たしかに、人類史上このような制度を取り入れたことはなかった。だからやってみる価値はあるかもしれないが、しかし?・・・。

「先程もいったように、この制度の発想の原点は人の心を信じ敬うところから出発しています。したがってこの世界の人たちは、人を信じ自分を信じています。そんな人たちが、常識外れの物を収得するはずはないし、無謀な消費に走るはずもありません。あなたが私の話を信じられないのは、私の世界に今の醜い世界をダブらせて見るからです。」

「ご老人は人の心は善だといいますが、今の世界を見ると、どこにその善が見えるでしょうか?。他人を陥れてでも欲望を満たしたい。ライバルの不幸を見てはひそかに喝采を送っている。他人の不幸を楽しみの種にしている。そのような人の多い社会に、仏心をあてにする制度を導入しようなど無謀ではないでしょうか?。また成功するとも思えませんが?。」

「しかし、他の星の理想世界も一夜にしてなったわけではありません。地球と同じ醜い世界から徐々に脱皮し完成されたのです。

地球においても、理想の壁を乗り越える苦難の日々は続くでしょうが、今もいったように、人の心はそう見捨てたものではありません。磁石が北を指すように、制度さえ整えばきっとまともな向きを示すようになるでしょう。労働本位制の真価を知れば、どんな人だってのめり込む世界なのです。」

(つづく)

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