連載(66):人類の夜明|人類は何処へ行く「必然性の原理」(続き)
必然性の原理(前回からの続き)
○ ある幼子が(生まれたばかりの魂)欲しい物を手に入れたいがために、人殺しをしてしまったとしましょう。その反作用として、殺されるに等しい苦しみを、味わわされました。
そこでその幼子は、“人を殺めれば自分も同じような苦しみを味わうのだな?!”、という勉強をさせられたのでした。
○ 次生その子供は人殺しはしなかったが、物が欲しいばっかりに人を傷つけるという罪を犯してしまい、その反作用として自分も同じような傷をおわされたのでした。
そこでその子供は、“人を傷つけると自分も傷つけられるのだな?!”、ということを学んだのでした。
○ その教訓を生かし次生では、人を殺めず人を傷つけないよう心掛けました。
でも、どうしても人の物が欲しくて、今度は盗みをしてしまいました。ところが、全く逆さまな事件が起こったのです。現実に自分の物が盗まれて見ると、何とも腹立たしく何とも悔しい気持ちです。
そこでその少年は、“そうか人の物を盗むと人の気持ちをそれだけ傷つけるのだな?!”、ということを学んだのでした。
○ 次生では、人を殺めず、人を傷つけず、人の物を盗まない戒めを守りましたが、人を陥れるという罪を犯してしまいました。
そしてまたまた、自分が陥れられるという反対の体験をさせられたのでした。陥れられて見ると、その腹立たしさと悔しさは何ともやりきれない思いです。
そこでその青年は“そうか人を陥れたらこんな憤りを感じるのだな?!”、ということを更に勉強させられたのでした。
私たちはこのようにして、一歩一歩成長の階段を上っていくのです。
これが、因果応報によって矯正される必然性の姿です。
人類はこれまで、何度も過ちを犯して報いを受けてきましたが、それは必然性の中を黙々と歩かされた結果といえるでしょう。」
「それでは人生における不幸な出来事は、みな必然性の産物だといわれるのですか?。」
「そうなのです。私たちには惑わされやすい、五感というものが備わっています。
勿論、五感があるからこそ、無事に物質世界で生きられるわけですが、それに惑わされてしまうと、とんでもない過ちを犯す事になる。
そこで宇宙心自らが法の中心に座り、人間に警鐘を鳴らしているのです。
その警鐘が、痛みや苦しみや悲しみなのです。
この図を見て下さい。これは宇宙における大河と見立てることができるでしょう。」
老人は、石で土の上に線を引きはじめた。
(つづく)