連載(58):人類の夜明|幸福を求めて「幸せの正体」
幸せの正体
さて、これまで幸福について考えてきましたが、まだはっきりと結論が出されたわけではありません。
たしかに“心”に幸せを求めることでしたが、それではあまりにも具体性がありません。
もし聖人のように生きられるのでしたら(絶対を悟り、絶対の中に身を置くことができたなら)幸せの本質をつかむこともできるのでしょうが、それを現代人に求めるのは酷というものです。
したがって、凡人が幸せを手にする唯一の方法は、幸せを受け入れる心の状態をどう整えるかでしょう。
それでは、現実に私たちが幸せを感じるのはどんな時でしょうか?。
それはどこで感じるのでしょうか?。
第1に、五感で快さを感じたとき。
第2に、欲心が満たされたとき。
第3に、愛する者と満ち足りた生活をしているとき。
分け方は色々ありましょうが、おおよそこんな時に私たちは幸せを感じているはずです。
しかも、それを感じるのは肉体ではなく心でしょう。
快感も肉体から心に伝わって感じるし、舌で味わったおいしさも心で受け止め感じます。
また自己顕示欲を満した時の満足感も、愛する人と充実した日々を送っている時の喜びも、お金や宝石を手中に収めた時の喜びも、すべて心が感じているはずです。
その喜びは多寡によって感ずるより、質によって感じる方が大きいのではないでしょうか?。
その質を高めるのも己の心です。
たとえば、ここに月給二十万円の給料とりの奥さんがいたとしましょう。
今日の物価からすれば収入は多い方ではありませんが、慎ましい生活をすればやっていけない額でもありますまい。
そして、夫が一生懸命働いてくれたお金だからと感謝して使えば、不満は起きないでしょう。
だが隣の裕福な家を羨んで、うちの亭主が甲斐性なしだから貧乏なのだと思えば、不満は膨れ家庭に波風が起きるでしょう。
これでは幸せな家庭は築けません。
どんな幸せも他人と比べ不満をいっていたのでは、決して手にすることはできないのです。
同様にどんな不幸も、“まだまだ不幸な人はいる、私はまだ幸せな方だ!”とプラスに考えれば、大きな不幸も小さな不幸に変えることができるのです。
要するに幸不幸は、その人の考え方ひとつで決まってくるということです。
たとえば病気や事故などの不幸も、“これは生き方を変えなさいという警告だな!、”と謙虚に受け取り悪かったところを直していけば、ノイローゼにならずにすむのです。
また他人からひどい仕打ちを受けた場合も、これは自分を大きくする試練だと受け取れば、憎しみも恨みも感謝の思いに変えることができるのです。
要するに、憎むべきことも恨むべきことも、考え方ひとつで喜びや希望に転じることができるということです。
では、どうしたらそのような心をもつことができるのか、そのコツを教えましょう。
宇宙の心根は何度も言うように、“愛と調和”です。
すべてここに通じているのです。
これを信ずることです。
つまり、“つらい苦しい中に必ず実りがある”“苦しみは幸せに通じている”という宇宙の法則を信ずることです。
悪く受け取って暗い人生を歩むか、良く受け取って明るい人生を歩むか、欲と脅迫によって進化の道を歩むか、宇宙の法則を信じ進化の道を歩むか、この違いは天と地の開きがあるでしょう。
このように法則を信じ何事もプラス思考で対処すれば、どんな困難な出来事も、どんな不幸な出来事も、良きものに変換させられるのです。
そうなると老いることも、病むことも、別れることも、死ぬことも、すべて感謝の一念に包むことができ、出てくる言葉はただ“ありがたい”の一言になるのです。
ただしひとつ注意しなければならないのは、どんなにプラス思考を守っても、宇宙の正流に逆らった生き方をしてはなりません。
宇宙の正流とは、“愛と調和”の美しい流れです。
この流れに逆らわずプラス思考を持って生きれば、もう鬼に金棒です。
すべての人が一様な幸せを得たいと願っても、決してできるものではありません。
なぜなら、人それぞれ幸せの感じ方が違うからです。
ですから、幸せとはこんなものだ、あんなものだと、形にして見せられるものではないし、また人と比べられるものでもないのです。
心のもちかた次第で、得たり失ったり、小さくなったり大きくなったり、またどこにでも転がっているありふれたもの、それが幸せの正体なのです。
このように幸せの青い鳥は、どこにでもいるそんなありふれた鳥だったのです。
(つづく)