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警笛、鳴らせ

頬が痛い。耳が痛い。二月の終わり、私は裸足のまま目に付いた下駄を履き、父の影を辿っていた。かじかんだ足先は感覚がなくなり始めている。

【ーーお掛けになった電話は電波の届かない場所にあるか電源が入っていないためーー】

耳に押し当てたままの向こう側から、無機質な女性の声をもうずっと聞いていた。

父が突然姿を消したのは、冬晴れの土曜日だった。警察から電話があったとうろたえる母から、父の失踪を知らされる。
祖母は仏壇の前に這いつくばってひたすら手を合わせるばかりだった。仰いだ視界の隅に、真っ直ぐとした眼差しの祖父の遺影が映る。

ああ、もう会えない。
瞬間的にそう悟った。

母と兄、私と、散り散りになって父を探す。とても長い、永遠のような夜だ。どこにいる、どこへ行けば。こんな冬の寒さに、とうに暮れてしまった終日に。孤独な父は今どこで息をしているんだろうか。そんなことばかりが私の中を通り抜けてはまた、吹き荒み。途方もない、ひたすらに長い、長い夜だ。疲れ果て帰った母屋に入る気力はほとほと無く、離れに這い上がり膝を抱えると瞼が重く、もう持ち上げていられなかった。

ーーーーー

薄茶けた蝶が飛んでいる。祖父の通夜と葬式は、両日ともにバケツをひっくり返したような雨の中に終わった。喧騒のような靴の群れが無くなった後がらんとした家の中、応接室の扉にもたれかかり俯いている父がいた。「みんな帰ったね」と声を掛けながら顔を下から覗き込む。何も言わずに両の手のひらを固く結び、奥歯を噛み締めている父の目から、ぽたりとひと雫が落ちる。私は初めて父の泣き顔を見た。

いたたまれなくなり庭に出る、外はまだ雨だった。軒を叩く雨音を聞きながらぼんやりと庭を見渡すと、離れの明かりを1匹の蝶が舞っている。蝶、というよりも蛾に近く、それでいて優雅に浮遊するそれは、ひらひらとこの雨をもろともしない。どこからやってきたのだろう。と何故だろうか。【退治しなければ】という言葉がお腹の中心からじわりと広がってくるのが分かった。

「ああ、かわいそうに」

ぽつんと落ちてきた声に腹の声はかき消された。いつの間にか隣に立っていた喪服姿の父は、真っ直ぐと蝶を見つめていた。スーツのポケットに手を突っ込んでいる、父の癖だ。えも言われぬ表情を浮かべながら、すっくりと夜の黒に馴染んでいる。さっきもたれて小さくなっていた姿とは全くの別人に見えた。

「とまるものは何もないのにな」

はて、と思う。蝶はあの灯りの縁にとまっていたからだ。時々、というよりはいつも、この人は何を考えているのか分からない。私の少し先の時を見ているようだ、と思った。

「この世はとても、あっけらかんとしている、今日もこの瞬間から過去になっていく」

いつになく饒舌な父から溢れる言葉が、今日は一層意味がわからなかった。それだけ今日が父にとって異質な日だからなのだろうか。そりゃそうか、この人の父が亡くなったのだから。

「死んだら、人はどこへいくの」
齢九つの幼心にも、この愚問に答えがないことは分かっていた。それでも口をついて出てしまったのだ。

「どこにもいかないし、どこへでもいける」

ざあざあという雨音に反して、ぽつり、ぽつりと確かめるように落ちる言葉は、じわりと私の目の奥に染み込む。気がした。うん、とひとつ頷き雨に溢れ返った植木鉢の中の花を見やる。

指先から入ってきた言葉があった、あれは確か、

ーーーー

ごう、と強い風が吹き抜けると同時にガタガタと障子戸が震える音に目を見開き顔を上げた。
締め切られた離れの奥の間に、風が入り込む余地はない。でも確かに私の髪は舞い上がり、くすんだ和紙の扉が揺れている。さっきまで見ていた祖父の命日の夢が走馬灯のように雪崩れ込んだかと思うと、頭の中で途切れた瞬間あの日の植木鉢の中に鈴蘭がいる。りん、とひとつ響く鈴の音をこぼし、線香花火のように弾けて消える。

「おかえり?」

返事はなく、静まり返る。
おそらく、最愛の死に立ち会った瞬間だった。

次の日の朝、父は「ただいま」を言わぬまま我が家に戻った。

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